東京地方裁判所 昭和63年(ワ)4288号 判決
原告
株式会社龍村美術織物
右代表者代表取締役
龍村元
右訴訟代理人弁護士
土肥原光圀
同
野嶋董
同
梅山光法
同
龍村全
被告
丸美株式会社
右代表者代表取締役
大久保精一
右訴訟代理人弁護士
寺島健造
同
岡澤英世
同
米林和吉
右訴訟復代理人弁護士
保田眞紀子
右輔佐人弁理士
中山伸治
被告補助参加人
龍村晋
右訴訟代理人弁護士
寺島健造
主文
一 被告は、別紙第一ないし第三物件目録記載の帯地及び帯を販売又は販売のため展示してはならない。
二 被告は、原告に対し、金八七万九三〇〇円及びこれに対する昭和六三年四月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告のその余の請求を棄却する。
四 訴訟費用は、被告及び被告補助参加人に生じた費用の各三分の二を原告の負担とし、原告に生じた費用の三分の一を被告の負担とし、その余を各自の負担とする。
五 この判決は、第一、二項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
一 主文一項と同旨
二 被告は、別紙第四ないし第七物件目録記載の商品(以下「被告商品四」ないし「被告商品七」といい、右物件目録記載の裂地をそれぞれ「被告裂地四」ないし「被告裂地七」という。)を販売又は販売のため展示してはならない。
三 被告は、原告に対し、金一〇四〇万円及びこれに対する昭和六三年四月二一日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、原告が被告に対し、原告の製造、販売する別紙第一ないし第三原告物件目録記載の帯地及び帯(以下、それぞれ「原告帯一」ないし「原告帯三」という。)の模様(以下「本件模様一」ないし「本件模様三」という。)並びに別紙第四ないし第七原告物件目録記載の裂地(以下「原告裂地四」ないし「原告裂地七」という。)及び原告裂地四ないし七を使用したテーブルセンター等の商品(以下、原告裂地四ないし原告裂地七と対応して「原告商品四」ないし「原告商品七」という。)に使われている裂地の各模様(以下「本件模様四」ないし「本件模様七」という。)は、原告の販売する帯、帯地、テーブルセンター等の商品ないし裂地を表示するものとして需要者の間に広く認識されており、被告の販売する別紙第一ないし第三物件目録記載の帯地及び帯(以下、それぞれ「被告帯一」ないし「被告帯三」という。)、及び、被告商品四ないし七の各模様(以下、被告帯一ないし三及び被告裂地四ないし七に対応して、「被告模様一」ないし「被告模様七」という。)は、本件模様一ないし七と極めて類似し、それぞれ原告帯一ないし三及び原告商品四ないし七と混同されるおそれがあるから、原告の営業上の利益が害されるおそれがあるとして、不正競争防止法二条一項一号、三条一項に基づき、これらの販売及び販売のための展示の差止めを求めるとともに、同法四条に基づき、被告が故意又は過失により、昭和六〇年五月一日から同六三年三月三一日までの間、被告帯一ないし三を販売し、これによって、原告の営業上の利益が害されたとして、これらの販売(被告帯一の白地及び黒地が各一五本、被告帯二が一〇本、被告帯三が二〇本、合計六〇本)によって被告が得た利益の額(合計六一六万円)を含む一〇四〇万円の損害賠償及び右販売日より後の日から民法所定の遅延損害金の支払いを求めている事案である。
一 前提事実(争いがない。)
1 当事者
(一) 原告は、昭和三〇年に設立された京都市に本店を置く会社であり、東京、名古屋、大阪、札幌、広島、豊田に営業所を、京都府等に五つの工場を有し、帯地、経錦、高級雑貨、自動車内装織物類、緞帳、タピスリー、インテリア織物、染色文化財の復元織物などを製造販売し、年商は約二〇〇億円である。
(二) 被告は、呉服類、寝装品、婦人衣料品、裂地雑貨などの卸売を業とする会社である。
2 原告は、原告帯一ないし三、原告裂地四ないし七及び原告商品四ないし七を製造、販売している。
原告帯一は「威毛錦」の名で、原告帯二は「千代の冠錦」の名で、原告帯三は「大牡丹印金錦」の名でいずれも販売されており、タレの部分に「龍村平蔵製」の商標と商品名が金色で横書きされている。
原告裂地四は「天平双華文錦」の名で、原告裂地五は「鹿文有栖川錦」の名で、原告裂地六は「山羊花卉文錦」の名で、原告裂地七は「唐花雙鳥長斑錦」の名でそれぞれ販売されており、原告の社名又は原告会社の一部門である「龍村織物美術研究所」の名入りの商品説明が添えられている。
3 被告は、被告帯一ないし三及び被告商品四ないし七を、補助参加人龍村晋(以下「晋」という。)から仕入れて、販売している。
被告帯一は「如源綾緘文錦」の名で、被告帯二は「如源鵬冠錦」の名で、被告帯三は「大牡丹唐草錦」の名でそれぞれ販売されており、被告帯一ないし三のタレの部分には、金色の豪書風書体で、各商品名のほか「龍村晋謹製」と製作者名が横書きされている。
被告裂地四は「天平双華文錦」の名で、被告裂地五は「有栖川錦」の名で、被告裂地六は「山羊花卉文錦」の名で、被告裂地七は「天平唐花双烏文長斑錦」の名でそれぞれ販売されている。
4 被告模様一ないし七は、それぞれ本件模様一ないし七と極めて類似している。
二 争点
1 本件模様一ないし七の商品表示としての周知性
2 本件模様一ないし七は、晋にとって「他人の商品等表示」に該当するか。
3 混同のおそれ
4 晋の本件模様一ないし七の使用権原
(一) 明示の使用許諾
(二) 先使用(不正競争防止法一一条一項三号)
(三) 著作権の行使
(四) 黙示の承諾
5 公知公用の模様
6 権利の濫用
7 原告の損害
三 争点1(本件模様一ないし七の商品表示としての周知性)についての当事者の主張
1 原告
(一) 原告の技術と信用
原告は、各種の織物を製造しており、いずれの分野でも高い評価を受けているが、中でも帯と裂地は一般の人にも親しみ易く、特別の高級品としてよく知られている。原告は、設立以来初代龍村平蔵(以下「初代平蔵」という。)を最高顧問として、初代平蔵の古代裂、名物裂の研究、復織と、それを基盤とする現代向織物の創作の技術を承継し、さらに染色製織など美術織物の技術の向上に不断の研究努力を重ね、実際の製造に当たっては、糸を厳選し、染色、図柄、配色、製織等あらゆる点に細心の注意と労を惜しまず、常に製品の品質向上に努めるとともに、新製品の開発にも力を注ぎ、品数も増やしてきた。最近では、原告の帯地の図柄は、千を超え、地色の違いも数えるとその模様の数は二千数百に上り、また、先染紋織の絹織物の裂地も設立後まもなくは数柄にすぎなかったが、営業方針として早くから新商品の開発に力を注ぎ、順次柄数を増し、最近では八〇を超え、さらに柄の大小、地色の違いを数えると、その模様の数は二〇〇に達し、これらの高級帯地と裂地については、質においても品数においても他の追随を許さないものである。
初代平蔵は、その間、昭和三一年に芸術院恩賜賞を受け、さらに同三三年には織物の発明改良に関する功労により、紫綬褒章を受け、原告の技術と製品に対する評価は一段と高くなった。原告は、現在では、昭和五一年に三代龍村平蔵を襲名した龍村元が社長として「最高の品質」を社是に、日夜努力を続けている。
朝日新聞社は、文化事業として、昭和三三年に初代平蔵、同六一年と平成元年に三代にわたる龍村平蔵の織物美術の総合展を開いた。昭和六一年の総合展のために同社が発行した「龍村平蔵織の美展」(甲一〇の3のもの)の巻頭のあいさつには次のように記載され、原告の技術と特色に対する高い評価がよく表現されている。
「日本の絹織物、染織工芸を代表する京都・西陣にあって、独創的な美術織物を制作し続けている龍村平蔵の織の美を紹介します。三代にわたる龍村平蔵の仕事は、正倉院、法隆寺などに伝わる古代裂の技法研究とその復元、古代の秘技を現代に生かした創作と、日本が世界に誇る染織芸術の一頂点を極めたものといえましょう。」
(二) 原告の帯地について
(1) 原告製の帯地は、初代平蔵の永年にわたる研究の成果を基盤に、伝統ある京都西陣の地において、熟練した技術者により手織りで製織されており、また、多年の研究改良の成果により、製品の質が優れており、模様、風合、締め易さ、丈夫さなどいずれの点からも、高く評価されている。
(2) 原告製の帯地の販売は、高島屋グループとその他の業者の二つの流れにより、一般需要者の需要に応じている。高島屋グループへ販売される帯地は、タレの部分に「龍村平蔵製」の商標と商品名が金色で横書きされており、模様の点でも他の業者に販売する帯地には同じものはなく、関係者はこれを、「綿帯」(キンタイ)と呼び、格の高いものとされている。
他の業者へ販売する帯地には、タレの部分に「龍村製」「龍織」「たつむら」などの商標と商品名が金色で横書きされており、社内ではこれを「龍織](タツオリ)と呼んでいる。この帯地は、原告から関西関東の大手卸売業者に販売されるほかに、直接全国のデパートその他の小売業者にも販売されている。「錦帯」も「龍織」も柄数は五〇〇を超え、地色の違いを数えると、いずれも千を優に超える模様がある。
原告製の帯地や帯は、このようにして、高島屋をはじめ三越、伊勢丹、大丸、松坂屋などの一流デパートや全国多数の有名量販店で展示販売されてきた。高島屋やこれらのデパートの主要店舗では、毎年定期的に、その他では随時、原告の帯地の展示会を開き、原告もまた毎年定期的に東京、京都、名古屋で展示会を開き、広告宣伝に努めてきた。
原告の帯地や帯は、質的に優れており、龍村一族で他に帯地や帯の製造に携わるものはなかったので、原告や取扱店の営業活動と相まち、会社設立後数年を経ずして、初代平蔵の高い技術と業績を承継する唯一のものとして、一般需要者の間でも「龍村の帯」として高く評価され愛用されるようになり、その後も時の経過とともに評価を高め、我が国の経済的発展とともに、高級品の需要者も増し、益々一般需要者の間に広く深く浸透し、帯地メーカーとして益々著名となった。
このことは、昭和三〇年代、四〇年代の出版物における原告を紹介する記事によっても明らかである。
なお、西陣は、桐生、博多とともに帯地の三大産地であり、西陣だけでも帯をデサインし製造販売している業者が六〇〇以上あるが、原告の帯は品質において抜群であり、特に著名である。
(三) 原告帯一ないし三の周知性
(1) 原告の千を超える帯地の中でもトップクラスの代表銘柄ともいうべき特に人気の高いものが十数銘柄あり、その中に原告帯一ないし三がある。原告帯一(威毛錦)は原告の千をこえる帯地の中で販売本数が二位という特別の人気商品であり、原告帯二(千代の冠錦)も一〇位前後という人気銘柄であり、原告帯三(大牡丹印金錦)は丸帯の中で今なお持続的な人気のある特別の銘柄である。いずれも原告設立当時から販売されているもので、高島屋グループにより販売される錦帯である。また、人気銘柄については、地色に色変わりがあり、原告帯一には白、黒、緑の三種があって(地色が変われば、それに応じ多少柄の色合いも変わることが多い)、このため客の年齢層も広くなり、関心を持つ客もそれだけ多くなって、販売本数も増加する。原告帯三にも白、黒、緑、朱、原告帯二にも白、黒、赤の地色があり、同じような事情がある。
(2) 高島屋グループは、現在関東地方に東京、横浜、高崎、柏、玉川、大宮の六店舗、関西地区に大阪、京都の二大店舗、岡山、米子、岐阜に各一店舗などを有しており、店舗数、売場面積、売上高からも、東京圏と京阪神地区に特に力を入れ、顧客も多いデパートである。
高島屋グループでは、昭和三〇年の原告設立当初から、原告の帯地の製造販売に極めて協力的で、東京店と大阪店の呉服売場の中に「錦帯」など原告製品のための特別コーナーを設けて、特別の優良商品として顧客にアピールし、数年のうちには京都店にも、また同五二年には横浜店にも同様のコーナーが設けられた。また、東京店、大阪店、京都店では、昭和三〇年代から、その後横浜店でも、毎年定期的に「錦帯」の展示会を催し、毎回多数の顧客の来店を得て、実績を積んできた。
このような特別コーナーや展示会で、特に目に付き易い場所に展示されるのは常に人気銘柄であるので、原告帯一はしばしばこのような場所に展示されて、また印刷物にも掲載されることが多く、後記のような特徴ある美しい模様で客の目をひき、鮮明に印象付け、また、原告帯二及び三も同様にして、後記のような模様の格調の高い美しさは客に強い印象を与えてきた。原告が毎年京都で催す展示会においても同様である。
(3) 本件模様一は、丸帯「威毛錦」の模様によっている。丸帯「威毛錦」は、初代平蔵の作であり、昭和一三年にはベルリン第一回世界博覧会に出品し金賞を受けた程の優れた作品である。
本件模様一は、①美しい四枚の鎧の袖を二列に並べて長方形の一団とし、その短辺を帯輻いっぱいに描き、②それぞれの半袖の模様の間には程よい変化があり、いずれも華やかで若々しく、全体としてもよく調和し、写実的に表現されており、③この周辺に金銀で桜花ともみじをあしらい、④このようにしてなる模様を替太鼓、太鼓、腹紋に配し、⑤タレに金銀で桜花ともみじを点在させているとの構成からなる。
本件模様一は、このような構成により、全体として鎧の袖による若々しく華やかな日本的な美しさを巧みに織り出しており、特に右①ないし④の点は一体となって観者に強い印象を与えている。
(4) 本件模様二は、①写実的な表現で、王冠の上の中央に、瓔珞をくわえ羽をひろげた鶴を立たせて、これを中央に配し、②王冠から流れでるように、帯幅一ぱいに瓔珞を配し、③このようにしてなる紋様を替太鼓と太鼓に用い、④多くの瓔珞を、両側から中央に向けて並べて、幅の広い帯状の紋様を構成し、これを腹紋と手先に配し、⑤タレには、瓔珞を組み合わせて珠玉を散りばめ、⑥それぞれの紋様に色糸、金銀糸箔、王冠にはさらに色糸暈(ボカシ)を用い、変化の中にも調和と麗しさを表わしているとの構成からなっている。
本件模様二は、このような構成により、おめでたい鶴の王冠に美しい瓔珞を配し、祝意を込めて調和のある麗しさを織り出しており、右①ないし⑥の特徴は、一体となって観者に強い印象を与えている。
(5) 本件模様三は、初代平蔵の大正年代の作である。
本件模様三は、中心から左側と右側は模様が同じであり、かつ互いに連続した模様となっており、左右の各部の模様は、①二つの大きく華やかな牡丹の花をやや斜め上下に配し、②そのまわりに、花枝に小牡丹の花を添えて、唐草模様風に帯地いっぱいに描き、③これを上下に操り返して連続柄とし、④華麗な配色と印金の多用により豪華な模様とし、⑤タレに近い一部を地味な配色に変えているとの構成からなっている。
本件模様三は、このような構成により、牡丹の花の美しさと印金の手法と配色の妙により、絢爛豪華な美しさを織り出しており、右①ないし④の特徴は一体となって観者に強い印象を与えている。
(6) 原告は、原告帯一ないし三を昭和三〇年の設立以来製造しており、以来二八年間はこのような帯地を製造するものはほかになかった。原告帯一ないし三は、これにより最高級帯のメーカーとして著名な原告製帯地「龍村の帯」の中の代表銘柄としてよく知られるようになり、遅くとも昭和四〇年代初めまでには、取扱業者はもちろん、東京圏と京阪神地区の一般需要者にも、本件模様一ないし三の特徴は原告製の帯地であることを示すものとして広く知られるようになり、さらに全国的に周知となった。
(四) 原告製の裂地について
(1) 原告製の裂地は、一二〇cm広幅で、先染紋織絹織物(経錦)であり、設立当初は柄数も僅かであったが、早くから新製品の開発に努め、順次柄数を増し、最近では八〇を超え、柄の大小、地色の違いも数えると、その模様の数は二〇〇に達し、年間の総生産量は二万数千メートルである。
原告製の裂地の図柄は、三つに大別でき、正倉院などに保存されている古代裂、それより新しく室町時代から江戸時代にかけて外国から入ってきたいわゆる名物裂、外国に保存されている古代の裂地、その他の図柄によるものがある。しかし、量的には正倉院ものが最も多く、名物裂によるものがこれに次ぐ。いずれも応用品であるので、図柄は忠実な復元ではなく、色については特に現代向に工夫を凝らし原告の創作といってよいもので、時代を超えた美しく格調の高い模様である。
(2) 原告製裂地の約八〇%は自社で加工される。内訳は、テーブルセンターに約五〇%、仕立て帯に約二〇%、ハンドバッグ、財布などの袋物、和装小物、ネクタイなどに約一〇%が用いられる。テーブルセンターで最も多いのは縦五〇cm、横三〇cmのものであり、原反一mから八枚製造できる。財布などでは、さらに多くのものが製造できるので、加工された商品の数は非常に大きくなる。
これらの商品は、関西関東の大手卸売業者などを通じて販売され、その年商は約一〇億円である。これらの商品は、いずれも模様の由来に関する原告名義の説明文を付して販売され、一般需要者は原告の営業所、原告が直接納入する各デパート、卸売業者を通じて仕入れる小売店で購入される。主力商品であるテーブルセンターの約四割は、自社で直接需要者に販売している。これは記念品などの大口注文が直接原告に来ることが多いためである。
原告製裂地の残り約二〇%は、原反のまま十数社に販売され、その年商は約一億円であり、右同様、ハンドバック、財布などの袋物、茶道具関係、ネクタイ、人形などの製造に用いられ、一般消費者向けの製品となって広く出回っている。これらの商品の販売の際、にも模様の由来に関する説明文が付されることが多い。また、模様によっては、インテリア関係にもよく用いられる。
(3) 原告製の裂地は、非常に用途が広いので、原告はあらゆる機会を利用して各種の展示会に努めて出品し、また、多数の人が集まるホテルなどの建物内の常設の展示場にも数多く出品している。
これらの裂地の加工品は、全国的に広く販売され、また引出物や記念品などとして、多数の人に配布されることも多く、中でもテーブルセンターと茶道具関係では原告製の裂地を用いたもののシェアは八割以上とされており、和装小物類においても相当高いシェアと推定されている。また、原告の裂地は海外にもよく知られているので、海外へ赴く人のみやげものとしても多く利用されている。
(4) 原告製の裂地と加工品は、このように多数の人の目にとまり愛用される機会も多く、また図柄の多くは古代裂、名物裂などからとり、色数を多く用い、色調と配色に特別の工夫を凝らして、現代的な格調の高い優れた模様とした特徴のあるもので、模様の由来も明らかであり、このような裂地とその特徴を生かした加工品を常時多種多量に製造販売している業者は他にないので、原告の裂地は遅くとも昭和四〇年代の初めには、加工業者はもちろん一般消費者の間にも、「龍村裂」として全国的に広く知られ多くの愛好者を得るようになった。
(5) 「龍村裂」の評価が高まり著名になったので、古くからの銘柄はいうまでもなく、新しく製造販売される銘柄についても、トップクラスのものでは二、三年、中位のものでも販売開始後四、五年で、取扱業者はもちろん広く一般消費者にも、その模様が知られるようになった。
(五) 原告裂地四ないし七の周知性
(1) 原告は、原告裂地四(天平双華文錦)の赤地を昭和三二年ころから製造している。原告裂地四の人気は、中位であり、年間一〇〇メートル位を製織している。
本件模様四の赤地の模様は、①赤地に白い六弁花文の縦縞部と緑色の菱形花文の縦縞部が交互に等間隔で繰り返され、②白い六弁花文は、上下、左右に対称で僅かに縦長であって、こげ茶色の長方形の茎から、上下に双葉状の特徴ある一枚の大きな花弁、左右に同様なやや小さい二枚の花弁、その間に丸い小さな一枚の萼のようなものが出ており、③この白い花文は、縦と横に、ほぼ等距離、等間隔に整然と並び、④緑色の菱形花文は、縦に長く、上下、左右に対称で、変形の赤い茎から緑色の房状の花が、上下にやや大きく、左右にやや小さく出ていて、⑤この緑色の菱形花文は、いずれも隣り合う四つの白い花文の中心に位置するように、縦横に整然と並び、⑥六弁花文のこげ茶色の茎には白い縁どりが、双葉状の花弁にはこげ茶色の縁どりがあり、⑦菱形花文の中心には、鳥居を二つ向き合わせて重ねたような変形の茎があり、房状の花は五弁花からなっていて、黄色の縁どりがあるという構成である。
本件模様四は、このような構成により、赤地に抽象化された白い六弁花文と緑色の菱形花文の形の整った二つの装飾模様を整然と配置し、配色の妙と相まって、天平時代の優れた錦にみられるような格調の高い美しさを織り出しており、特に右①ないし⑤の点はその特徴の主要な点であって、一体となって観者に強い印象を与えるものである。
この裂地は、それまでの龍村裂と同様に、古代裂の技法を現代に生かし一層美しいものを創作する原告の新製品として、発売後まもなく加工業者及びこの裂地を用いて作られた袋物などの取扱業者の注目をひき、遅くとも昭和四〇年代前半には、特に取扱店の多い大都市及びその周辺において、右①ないし⑤の特徴は原告製の裂地であることを示す模様の特徴として、この裂地を使用して製作されたテーブルセンター、袋物、和装小物、茶道具、人形などの需要者に広く知られるところとなった。
(2) 原告は、原告裂地五(鹿文有栖川錦)を昭和三八年から製造している。原告裂地五の人気は、中の上であり、年間五〇〇メートル位を裂織している。
本件模様五は、①橙の地色に、橙と白の混じった色、青と白の混じった色、橙の混じった緑色、青色と中間的な色を多く用い、②直線を多用して、全体的に直線部分の極めて多い模様とし、③襷状に右上から左下、左上から右下へ、規則的に折線状に起伏する縞模様を並べて描き、これにより多数の同形の変形八角形の枠を作り、④各枠に抽象化された特徴ある鹿の図形を青色で表わし、⑤鹿は一段毎に右向き、左向きと体の向きを変え、背には橙と白の混じった六つの斑点を描き、⑥縞模様は、折線状に起伏し並走する二筋の縞よりなり、これにより作られる変形八角形の枠の配色はすべて同じで、鹿の前と後に青色の部分、上下に緑色の部分及び青と白の混じった色の部分で囲まれており、二筋の縞の間には青の点、青と白の混じった点が散らされているとの構成である。
本件模様五は、このような構成により、橙色の地に抽象化した特徴ある鹿とこれを囲む枠からなる極めて直線部分の多い図形を、中間色を多く用いて表わし、名物裂の図案を生かしながら配色の妙により独特の面白さをもつ美しい模様を創作している。特に、右①ないし④の点はその特徴の主要な点であって、一体となって観者に強い印象を与えるものであり、発売後数年を経ずして遅くとも昭和四三年ころまでには、原告製の裂地であることを示す模様の特徴として、この裂地を使用して製作されたテーブルセンター、袋物、和装小物、茶道具などの需要者に広く知られるところとなった。
(3) 原告は、原告裂地六(山羊花井文錦)の中柄ローズ地を同四一年から製造販売している。原告裂地六の人気は、中の上であり、年間五〇〇メートル位を製織している。
本件模様六の中柄ローズ地の模様は、①地色をローズ、紋様をベージュ色とし、②花卉を中心に瑞雲と山羊で囲む楕円の正文と、鳥を中心とする副文との組み合わせにより構成された、動きのある紋様を連続して繰り返し、③紋様はすべて上下、左右に対称とし、④正文は、花卉を中心とし、その上下に樹木とうずくまる一対の兎、その上に瑞雲を配し、中心の左右に花を戴いた双鳥、さらにその左右にこの花を挟んで一対の山羊、山羊の背に別の瑞雲を配し、楕円の外形とし、⑤正文の両側は、瑞雲を対称に配し、その上下に花卉を置いた縦長の紋様を、また正文の上下には別の一対の複雑な花卉紋様を左右対称に配している、⑥四方を正文に囲まれた中の副文は、中心に上下に二つの花を置き、これをとりまいて四羽の鳥を上下左右対称に配しているとの構成である。
本件模様六は、このような構成により、落着いたローズ色の地に、動植物や瑞雲を表わす多くの図形からなる上下左右に対称な紋様をベージュ色一色で描いて、万物共存の喜びを表わすような調和と動きのある美しい模様を作り出している。特に、右①ないし③の点はその特徴の主要な点であり、一体となって観者に強い印象を与えるものであり、発売後数年を経ずして遅くとも昭和四三年ころまでに、原告製の裂地であることを示す模様の特徴として、この裂地を使用して製作されたテーブルセンター、和装小物、茶道具などの需要者に広く知られるところとなった。
(4) 原告は、原告裂地七(唐花雙鳥長斑錦)の中柄を設立当初の昭和三〇年から、同小柄を同三六年から製織している。原告裂地七は、最も人気のある銘柄の一つであり、毎年小柄一〇〇〇メートル、中柄二〇〇メートル位を製織している。
本件模様七は、①地色は、赤、青、朱、緑、紫、黄緑の太い同幅の縦縞地とそれぞれの間を区切る黄色の細縞とし、②大きな花とその下に花弁をくわえた双鳥からなる紋様を、③太い縞地に、主に白で表わし、僅かに配色を変えて二つ一組として、縦方向に繰り返し、④隣列の紋様とは、双鳥の向きを上下反対にして、互いに中間に位置し、⑤花と双鳥は、緑、紫、黄緑の縞では茶により、赤、朱の縞では青により、青の縞では黄により、部分的に彩られている、⑥黄色の細縞は、紫と金、又は青と銀で縁どられており、淡紅の花模様の一部が左右から等間隔に交互に配されているとの構成である。
本件模様七は、このような構成により、赤、青、朱、緑、紫、黄緑の太い縦縞地を黄色の細縞で明確に区切り、これに白で大きな花と双鳥を表わして、多くの色の太い縞からなる美しい模様としたものである。特に、右①ないし④の点は、その特徴の主要な点であって、一体となって観者に強い印象を与えるものである。この裂地は、すでに高い評価を得つつあった原告の一連の先染紋織絹織物の裂地に新しい一銘柄を加える新商品として、まもなく加工業者及びこの裂地を用いて作られたテーブルセンター、袋物などの取扱業者の注目をひき、特に取扱店の多い大都市及びその周辺においては、発売後数年を経ずして遅くとも昭和三〇年代の終わりには周知となり、右①ないし④の特徴は原告製の裂地であることを示す模様の特徴として、この裂地を使用して製作されたテーブルセンター、大帛紗などの需要者に広く知られるところとなった。
2 被告
本件模様一ないし七は、次のとおり、原告の商品の表示として、現在に至っても日本国内において広く認識されているとはいえない。
(一) 帯・裂地の模様の商品表示機能について
帯・裂地に織られた模様は、本来、帯・裂地に美観を与え、また高めるものであって、帯や裂地の出所を表示することを目的とするものではないが、副次的に自他商品の識別機能を持って、ひいては出所表示機能を取得した場合に限り、右模様は商品表示たり得る。
しかし、帯の図柄は、昭和六〇年ころでも一年間に約一〇万件出まわっており、社団法人日本染織意匠保護協会で保全登録を申請されるものが年間一万件から一万三〇〇〇件あること、同協会において保全登録された図柄でも、保全登録済みの証紙を申請者が当該商品に貼付することができるにすぎず、当該図柄自体を一般に公示する方策は何らとられていないこと、特に奇想天外で独創的な特徴のある図柄を除けば、商品である帯を見てその図柄自体からその出所を識別することは困難であることからすれば、帯・裂地の模様が自他商品の識別機能を持ち特定の出所を表示するようになるためには、①右模様には他商品と異なり、特に奇想天外で独創的な特徴があるという顕著な特色があり、②長期にわたり独占的、継続的に使用され、③強力に宣伝されたというような諸事情の下に、右模様が周知著名なものとなり他のものから区別された個性のあるものでなければならない。
(二) 本件模様一ないし七の商品表示機能について
本件模様一ないし七は、自他商品の識別機能を有するに足る個性あるものとはいえず、出所表示機能を有さず、ひいては商品表示たり得ないものである。
(1) 本件模様一について
本件模様一に関連する模様は、別紙対比第一目録(威毛)のとおりである。
本件模様一は、鎧の袖四枚と桜花及びもみじが配されているところ、桜花及びもみじはごく普通のもので特殊性がなく、取引者の注意をひく要部は鎧の袖にある。鎧の袖は、それ自体古来から存在する物であり、本件模様一にある鐙の袖も抽象化されあるいは特殊な形に変形されたりしていない独創的要素のない写実的な形状であり、取引者は「普通の鐙の袖」の形状と認識するに止まるものである。
また、原告帯一の外に、鎧の袖を模様とするものは、後述のとおり晋がその事業を継承している初代平蔵又は龍村商店が、原告が設立されるはるか以前である昭和一三年以前に既に製造販売しており、本件模様一は、原告の創作にかかるものではないし、原告が昭和三〇年以前に販売を開始したものでもなく、さらに第三者も本件模様一に類似する模様を使用しており、類似の模様は数多く存在する。
したがって、本件模様一は、他者商品の右各模様と顕著に異る特色を有するものではないことが明らかである。
(2) 本件模様二について
本件模様二に関連する模様は別紙対比第二目録(千代の冠)のとおりである。
本件模様二は、王冠と鶴と瓔珞が配されているところ、瓔珞はそれ自体普遍的なものではなく、取引者の注意をひく要部は王冠と鶴にある。
本件模様二の王冠と鶴の模様は、晋がその事業を承継している初代平蔵又は龍村商店が、原告が設立されその製造を開始するはるか以前の昭和一三年には右模様を付した商品を製造販売しており、また、第三者によっても類似の模様が使用されている。
(3) 本件模様三について
本件模様三に関連する模様は、別紙対比第三目録(大牡丹印金)のとおりである。
本件模様三は、牡丹の花と唐草にあるところ、そのいずれも次のとおり古来から使用されてきた模様であって、何ら他商品の模様と顕著に異なる特色を有するものではない。
牡丹及び唐草をモチーフとする模様は、古来から数限りなく存在し、晋がその事業を継承している平蔵又は龍村商店が、原告が設立されその製造を開始するはるか以前の昭和八年ころには右模様を付した商品を製造販売しており、また、第三者も帯の模様として数多く使用している。
したがって、本件模様三は、他者商品の右各模様と顕著に異なる特色を有するものではなく、需要者取引者の意識下では埋没してしまうものである。
(4) 本件模様四について
本件模様四に関連する模様は別紙対比第四目録(天平双華文)のとおりである。
本件模様四は、正倉院に伝わる古代裂「赤地花文錦」とほぼ同一であり、晋がその事業を継承している平蔵又は龍村商店が、原告が設立されその製造を開始するはるか以前の昭和一三年には右模様を付した商品を製造販売しており、また、第三者によっても同一又は類似の模様が使用されている。
したがって、本件模様四は、古来から長期間にわたり数多くの品に使用されてきた模様と何ら顕著に異る特色もしくは独自の特徴を有するものでなく、取引者の意識下では埋没してしまうものである。
(5) 本件模様五について
本件模様五に関連する模様は、別紙対比第五目録(鹿文有栖川)のとおりである。
本件模様五は、前田家に伝わる名物裂「有栖川錦(鹿文様)」とほぼ同一であり、晋がその事業を継承している平蔵又は龍村商店が、原告が設立されその製造を開始するはるか以前の昭和一三年には右模様を付した商品を製造販売しており、また、これまで第三者によって同一又は類似の模様が使用されている。
したがって、本件模様五は古くから長期間にわたり数多くの品に使用されてきた模様と何ら顕著に異る特色ないし独自の特徴を有するものでなく、取引者の意識下では埋没してしまうものである。
(6) 本件模様六について
本件模様六に関連する模様は、別紙対比第六目録(山羊花卉文)のとおりである。
本件模様六は、正倉院に伝わる古代裂「紫地山羊花卉文錦」と同一であり、第三者によって同一もしくは類似の模様が使用されている。
したがって、本件模様六は、古来から長期間にわたり数多くの品に使用されてきた模様と何ら顕著に異る特色又は独自の特徴を有するものでなく、取引者の意識下では埋没してしまうものである。
(7) 本件模様七について
本件模様七に関連する模様は、別紙対比第七目録(唐花雙鳥長斑錦)のとおりである。
本件模様七は、正倉院に伝わる古代裂「花鳥文長斑錦」とほとんど同一であり、晋がその事業を継承している初代平蔵又は龍村商店が、原告が設立されその製造を開始するはるか以前の昭和一四年には右模様を付した商品を製造販売しており、また、晋自身も昭和二一年には右模様を使用している。また、これまでの間、第三者によって同一又は類似の模様が使用されている。
したがって、本件模様七は、古来から長期間にわたり数多くの品に使用されてきた模様と何ら顕著に異る特色又は独自の特徴を有するものでなく、取引者の意識下では埋没してしまうものである。
(三) 本件模様一ないし七が長期にわたり独占的、継続的に使用された事実はないし、本件模様一ないし七が付された商品が強力に宣伝広告された事実もない。
(1) 原告がその設立時である昭和三〇年から本件模様一ないし七をその商品に付して使用したことがあることは、必ずしも否定するものではない。しかし、以上のとおり本件模様一ないし七と同一又は類似する模様を使用した商品は数多く市場に出ており、初代平蔵及び晋が販売した事実も含め、原告が「独占的」に使用してきたということはできない。
(2) 原告は、特設売場・営業所・展示会・催事場で本件模様一ないし七が付された商品を展示した旨主張するが、これらは商品を購入する者に対してのみなされる販売を前提としての展示であり、不特定多数に対する宣伝広告ではない。また、販売のための展示といっても、本件模様一ないし七を付された商品がどのような態様で何回展示されたかも不明である。これは、原告の商品を愛用する限られた顧客(証人細野によれば東京営業所で現在約五〇〇名にすぎない)に対してのみ販売をするという企業方針によるものと考えられる。
(3) 原告は、特殊な販売形態を採用しており、その商品が市場に出まわり一般需要者・業者の目にふれ、手にふれることは少なく、その印象に残ることがない。
すなわち、本件模様一ないし三の付された原告帯一ないし三は、高島屋の店舗で直接需要者へ販売され、通常のように市場で展示販売されるのではない。したがって一般取引業者は取引の際右模様に接することがない。
また、本件模様四ないし七の付された原告裂地及び原告商品四ないし七は、直営店や一流デパートで販売され、その顧客はごく限られた範囲にとどまっている。
(四) 本件模様一ないし七が織られた商品の販売開始時期、販売数に関する原告の主張は、いずれも抽象的で何ら具体的根拠を伴わない上、これを証明する証拠もない。すなわち、原告提出の各書証を総合しても、初代平蔵又は原告には、古代裂・名物裂の復興に功績があったこと、帯の製造業者として「龍村」は有名であること、「帯の龍村」が「川島織物」と並び称せられていること(なお、被告は、「龍村平蔵」の名が大正一〇年ころには日本全国において周知著名となり、昭和初期には「龍村の帯」や「龍村の織物」が高品質であることで有名となったことは、何らこれを争うものではない。)、原告がその商品を皇室に納入していること、「威毛錦」「大牡丹印金錦」「鹿文有栖川錦」「山羊花卉文錦」「天平双華文錦」がどのような模様であるか等は認められるものの、肝心の本件模様一ないし七が、原告商品たることを示す表示として認められるほどに周知著名であったことを認めるに足りる事実を見出すことは不可能である。
また、原告は、その帳簿・記録等すべての資料を検索し、具体的に詳細な資料を添付して周知性を立証するのに必要な販売実績を立証すべきところ、原告の社員らは、あいまいな表現で売上高を述べたのみで全く具体的販売実績を示していない。
(五) 以上によれば、本件模様一ないし七は、他の商品の模様と異る顕著な特色や独自の特徴を持つものではなく、また、これらの模様が原告によって独占的に使用されたこともなく、さらには、これらの模様が付された商品が強力に宣伝広告された事実もなく、しかも、原告が独特の商品販売方法をとっているため、本件模様一ないし七は多くの呉服商及び一般需要者の視覚に触れることが極めて少ないという特別な事情があるのであって、本件模様一ないし七が周知著名なものとなり他の模様から区別される個性のあるものになっているとは到底いえないのである。すなわち、本件模様一ないし七は、自他商品識別機能も出所表示機能もなく、商品表示たり得ないというべきである。
四 争点2(本件模様一ないし七は、晋にとって「他人の商品等表示」に該当するか)についての当事者の主張
1 被告
仮に、本件模様一ないし七が商品表示たり得るとしても、その主体は原告ではない。
(一) 本件模様一ないし七が織られた商品を最初に製造販売したのは、初代平蔵又は龍村商店又は龍村製織所(明治三九年)又は龍村織物美術研究所(昭和九年)又は龍村織物株式会社(昭和二三年、以下「龍村織物」という。)であるため、右商品表示の付された右商品に接した取引者需要者が右商品の出所と認識するのは「龍村」である。
初代平蔵の三男晋は、後記のとおり、右各会社において同二男龍村謙(以下「謙」という。)と共に初代平蔵の薫陶を受け、粉骨砕身「龍村」の事業の発展に寄与してきたのであって、右「龍村」には晋も当然包含されているのである。
したがって、商品表示としての本件模様一ないし七の主体は、晋にとって「他人」ではない。そして、被告は、晋から「龍村」の商品を購入し販売しているのであるから、被告にとっても「他人」ではない。
(二) また、原告が平蔵の事業の後継者として右「龍村」という商品表示の主体を承継したと同様に、晋もまた平蔵の事業の後継者として後述のとおり昭和二六年四月一日に確認されているのであって、右「龍村」という商品表示の主体を正当に承継しているのであり、商品表示としての本件模様一ないし七の主体は、晋にとって「他人」ではない。
2 原告
(一) 被告は、初代平蔵ないし龍村商店等が創作した帯地の模様は、現在も「龍村」の商品表示である旨主張するが、原告は昭和三〇年設立以来、同人の織物事業の唯一の正当な承継者として原告帯一ないし三及び原告裂地四ないし七を製造販売してきたので、これらは原告の商品として広く知られるようになったものである。
本件模様二は、昭和一九年ころ以降に原告又はその前身である有限会社龍村美術織物により創作されたものであり、古く戦前からのものは本件模様一及び三だけである。そして、原告はこの二銘柄を、昭和三〇年の設立当初から現在まで継続して製造しており、早くから原告製帯地の代表銘柄となっている。
被告は、原告裂地四ないし七は、初代平蔵が戦前から製造・販売頒布していた旨主張するが、原告裂地四ないし六は、前記のとおり、いずれも昭和三二年から同四一年までの間に原告において製造販売を始めたものである。また、原告裂地七の中柄の裂地は、有限会社龍村美術織物が昭和二九年に開発して製造販売を始め、同三〇年一二月に設立され同社の織物製造事業部門を承継した原告が設立当初から引続き製造販売しているものである。
(二) 晋が昭和二五年末に上京以来社長となり経営していた龍村商工株式会社(以下「龍村商工」という。)は、昭和四六年五月倒産した。右龍村商工は、その事業の規模は極めて小さく、経営方針に着実性と持続性がなく、永い間同人の製品を常時取り扱い、展示販売する業者はなかった。また、龍村商工は、製造工場を有したことはなく、従業員に技術者はおらず、昭和三〇年から同四六年ころまで八王子市に子会社ともいうべき東龍織物株式会社の小工場があったが、主に交織の室内装飾裂を製造しており、難しい高級品を製織する技術を有しなかった。
晋は、昭和五七年ころから力織機による仕立袋帯地の製造を始めたが、群馬県下の業者の技術に依存し、下請させていたものである。ところが、晋は、昭和六〇年秋から被告を通じ、横浜そごうへ帯の納入を開始し、同人の製品の特別コーナーが設けられ、当初は臨時的なものであったが、一時このコーナーが常設化するようにみえたこともあった。しかし、これも、その後縮小されている。
以上のとおり、晋が経営する会社は、細々と断続的に裂地を製造したようであるが、自社工場をもったことはなく、その経営規模は極めて小さなもので、量的にも質的にも到底原告に遠く及ばず、一般需要者の関心をかちえて同列に評価されるようなものではなかった。したがって、原告が昭和三〇年に設立されてから約二〇年間、原告のほかに、龍村の一族又は一族が経営する会社で高級袋帯地や丸帯地を製造したものはなかったのであり、「龍村の帯」及び「龍村裂」といえば、原告製の高級帯地又は帯ないしは裂地を意味することはいうまでもない。
五 争点3(混同のおそれ)についての当事者の主張
1 原告
(一) 被告は、本件模様一ないし七と酷似した被告模様一ないし七の付された被告帯一ないし三及び被告商品四ないし七を販売しているのであり、取引者、需要者において、原告帯一ないし三及び原告商品四ないし七と混同されるおそれがあり、原告の営業上の利益が害されている。また、被告帯一ないし三及び被告商品四ないし七の品質が劣るため原告の信用が害されている。
(二) 被告は、被告帯一ないし三、被告商品四ないし七は、晋の製品たることを表示して販売している旨主張するが、それによって原告の商品との混同のおそれをなくするには程遠いものであり、右主張は理由がない。
2 被告
被告の商品と原告の商品とが混同することはなく、需要者が被告の商品を原告の商品と認識し購入するおそれはない。
本件模様一ないし三の付されている原告帯一ないし三は、「龍村平蔵製」又は「たつむら」「龍村製」なる商標と商品名「威毛錦」「千代の冠錦」「大牡丹印金錦」が金色で横書きされており、本件模様四ないし七の付されている原告裂地及び原告商品四ないし七には、「龍村織物美術研究所」の名称が記入されている。他方、被告帯一ないし三及び被告商品四ないし七には「伝承名錦龍村晋製」の名称が商品名とともに記入されている。
したがって、いずれの商品にも、その出所を明記する表示が付されており、取引者が混同することはない。
原告の商品は、前述のとおりの特殊な販売方法を採っている。また、原告帯一ないし三は、極めて高額で、高島屋グループでのみ販売され、その他のものも、原告の製造にかかる物のみを取り扱っている自社直営店や一流デパートで販売されており、他方、被告らの商品は、取引業者の特別注文や、適宜開催される展示会に展示販売されるのであって、両者の商品は、販売方法、販路が異なるため、需要者取引者の層が異なり、彼此混在し相紛れることはない。
六 争点4(晋の本件模様一ないし七の使用権原)についての当事者の主張
1 被告
仮に、本件模様一ないし七が商品表示たり得て、かつ、被告が被告商品を販売する行為が不正競争行為に該当するとしても、被告は、以下の抗弁を選択的に主張する。
なお、被告は、被告各商品を晋から購入し、販売しているのであるから、晋が主張しうる抗弁をもって被告の抗弁と主張する。
(一) 明示の使用承諾
晋は、被告模様一ないし七を機械により製作する主として広幅の織物の模様として使用しているところ、右行為は、初代平蔵の三男晋と二男謙及び四男龍村徳(以下「徳」という。)との間の昭和二六年四月一日付け合意(以下「本件合意」という。)に基づくものである。
初代平蔵の事業を引き継いだ龍村織物美術研究所は、戦後営業とみに好況を呈し、かなりの利益を上げたため、個人組織から法人組織の会社を設けることになり、昭和二三年龍村織物が設立された。龍村織物は、当初龍村織物美術研究所時代と同様順調に営業を続けていたが、間もなく、戦後のインフレーション鎮圧のためとられた、世にドッヂラインの呼名で有名な政府の財政緊縮政策の影響を受け、従来あった政府からの大量の注文が一時完全に杜絶するとともに、そのころ繊維製品に対する統制が一挙に撤廃されるに至って営業活動がたちまち沈滞に向い、早くも昭和二四年には五ないし六〇〇〇万円を超す負債を抱えて経営が行き詰まり、融資先金融関係からは、八〇〇人以上いた従業員を二〇〇人に減少せよと人員整理による営業規模の縮少を迫られるに至った。こういう事態に直面し、晋は、金融機関からの強い指示により、謙が中心になり龍村織物美術研究所において行っている美術面に関する研究活動は直接生産活動に結びついていないとして、営業建直しのためには、金融機関の要求に従いまず研究所の人員を大幅に削減し、今後は少人数で技術の保存・研究を行うことにしなければならない、右削減すべき人員の中に家業に熱心でない徳らも含めるべきであると主張して謙及び徳らと激しく衝突し、同人らの離反に会うに至った。そこで晋は、独り残って初代平蔵が絶大な信用をおいていた晋の妻の叔父である田中市蔵(田中財閥と言われた)の資産力を背景に龍村織物の財政建直しをはかったが、謙及び徳らが右田中が龍村織物を乗取ると邪推して暴言をはいたり、晋の仕事の妨害をしたり等種々のいやがらせに会い初期の計画を全うすることができず、謙らのいる京都を離れ、自ら東京に進出して新たな市場を開拓し、京都の龍村織物の再建を計る方法しかないと考え、昭和二五年一二月二九日東京に織物製品の製造販売を目的とする龍村商工を設立した。晋は、初代平蔵の事業を絶やすことなく承継発展させていくために、翌昭和二六年四月一日、謙との間で、手織により製作する高級な帯を中心とする美術織物の製造販売を謙において行い、機械により製作する主として広幅の織物の製造販売を晋において行う旨を取決め、翌日(昭和二六年四月二日)、徳も、右取決めに同意した。
そして、晋は、右取決めに従い、龍村商工において布製品の製造販売を行い、昭和四〇年七月に株式会社龍村を、同四五年四月二〇日に龍村商工の販売部門を担当するものとして株式会社龍村織宝をそれぞれ設立した。他方、謙及び徳は、昭和二九年三月に有限会社龍村美術織物を、同三〇年一二月に原告を設立するなどして、各々今日に至っている。
本件合意は、右のとおり、初代平蔵の後継者である謙及び晋との間で、初代平蔵の事業を絶やすことなく継承発展させるために取り決められたのであり、具体的には初代平蔵及び謙ないし龍村織物が創作製造したすべての商品のすべての模様について、謙・徳・晋各々が使用してその製品を販売しうるものの、特に販売先の中心であった高島屋への製品につき、謙が手職による高級な美術織物を担当し、晋が機械織による大量生産品を担当するというものである。そして、戦後からとはいえ龍村の事業に関与していた徳に右合意を知らしめた上、本件合意書(乙一)の原本に同意の署名をさせたものである。
なお、元は、前述のとおり右合意の当時二七歳であって、神戸第一高等学校の教職をしており初代平蔵の事業には全く関与しておらず、本件合意の成立の経緯を知りえない立場にあったが、謙や徳が右合意に基づき事業を継承するために設立した有限会社龍村美術織物や原告に深く関与している者であり、元や原告は、謙や徳がした本件合意に拘束されるものである。
よって、晋は、本件合意に基づき、換言すれば原告の承諾の下に被告模様一ないし七を使用して被告帯一ないし三及び被告裂地四ないし七及び被告商品四ないし七を製造販売しているのであり、また、被告は、本件合意に基づき晋により製造された被告帯一ないし三及び被告商品四ないし七を晋から買入れ、需要者に販売しているのであり、原告は被告の右行為を差止めることはできない。
(二) 先使用(不正競争防止法一一条一項三号)
晋は、本件模様一ないし七が原告の商品表示として日本国内において広く認識される以前から、被告模様一ないし七を善意で使用したのであり、先使用権を有する。
晋は、被告各商品を以下の時期から現在まで継続して製造販売している。
被告帯一 昭和四五ないし四六年
被告帯二 昭和四六ないし四七年
被告帯三 昭和四五年
被告裂地四及び被告商品四 昭和二六ないし二七年
被告裂地五及び被告商品五 昭和二八ないし二九年
被告裂地六及び被告商品六 昭和二八ないし二九年
被告裂地七及び被告商品七 昭和二六ないし二七年
晋は、被告各商品の製造販売を開始するに当たっては、右商品に織られた各模様が父平蔵又は謙の創作にかかるものであり、前述のとおり昭和二六年四月一日の本件合意によりその使用を承諾されたものと認識したのであって、原告の手織による高級な商品とは、販路も販売方法も市場も異なり顧客が競合することがないのであって、右原告と不正な競争をする目的は全くもっていなかった。
もし、晋に不正の目的があるとするならば、徳自らが本件合意を記載した乙一の書面(以下乙一の1の1ないし4全体を指すときは枝番を省略し、単に「乙一」と記載する。)において認めているように、晋は、原告の代表者よりも高島屋の信用が篤くまた高島屋との取引関係を熟知していたのであるから、原告の主たる取引先である高島屋へ手織の物も販売していたはずである。晋が高島屋へその商品の販売をせず、その取引さえ申し出なかったことは、晋に不正の目的が全くなかった何よりの証左である。
なお、晋は、被告各商品に織られた模様を右のとおりの時期に自ら使用開始したのであるが、右模様は晋の父平蔵が次のとおりの時期から使用していたのであって、晋は、本件合意によりその使用を承継したものでもある。
本件模様一 大正初めころ
本件模様二 昭和一二ないし一三年ころ
本件模様三 大正初めころ
本件模様四 大正時代
本件模様五 大正一二年ころ
本件模様六 昭和一六年ころ
本件模様七 昭和一四年ころ
(三) 著作権の行使
晋は、父平蔵が本件模様一、三ないし七について有していた著作権の共同相続人の一人であり、相続した右著作権に基づき被告帯一、三及び被告裂地四ないし七として複製し頒布しているのであり、また、亡兄謙は、本件模様二について著作権を有していたが、晋は、同人から許諾を得て被告帯二として複製し頒布しているのである。したがって、晋は、いずれも著作権法により権利を行使しているのであって、原告の差止請求は許されない。
すなわち、本件模様一ないし七は、「思想又は感情を創作的に表現したものであって美術の範囲に属するもの」である。なお、本件模様一ないし七は、帯・布等の実用品に利用されることを目的とするいわゆる応用美術に該当するが、応用美術のうち美術の著作として著作権の対象となるのは、一回の芸術的活動の成果として止まるものばかりでなく、量産されて産業上利用されることを目的とするものであっても、それが同時に感情的表現を顕現させ純粋美術としての絵画等に該当し美術性を具備しているものであれば、これらに対しても認めるべきである。単に量産されるか否かで美術の著作物性の存否を決するのは妥当でない。したがって、本件模様一ないし七は、実用品に利用され量産されることを目的とするものではあるが、感情的表現を顕現させ純粋美術としての絵画等に該当し美術性を具備しているのであって、美術の著作物に該当するものである。
そして、初代平蔵は、昭和三七年四月二日、死亡したため、右著作権は、その子らである謙、晋、徳、元らが共同で相続し、同時に晋に対する右著作物を利用させる債務も共同相続した。
また、本件模様一、三ないし七は、初代平蔵の創作にかかる著作物であって、その著作権は初代平蔵が有していたところ、晋が昭和二五年一二月龍村商工を設立するに当たり、初代平蔵は、晋に対し右著作物を利用することを明示ないし黙示に許諾した。
次に、本件模様二は、謙の創作にかかる著作物であり、謙がその著作権を有していたところ、謙は、昭和五三年五月ころ、その子龍村順に株式会社龍村光峯美術織物を承継させるに当たり、晋に順の後見をするよう依頼し、その際右模様の帯を製造販売することを承諾して、右著作物を利用し複製頒布することを許諾した。謙は、昭和五三年一一月二八日死亡し、右著作権は右順が相続し、同時に晋に対する右著作物を利用させる債務も相続した。
なお、平成五年五月一九日改正前不正競争防止法六条においては、著作権法による権利の行使については明記されていなかったが、著作権も排他的・独占的権利でありその行使も、右条文上不正競争行為とはならないというべきである。
(四) 黙示の承諾
原告は、本件模様一ないし七は、原告の商品表示として、遅くとも昭和四〇年代初めには周知性を取得した旨主張している。
晋は、被告帯一ないし三、被告裂地四ないし七及び被告商品四ないし七を前記のころから製造販売してきたが、晋の動向を常に注視し争訟してきた原告は、右晋の行為を熟知していたのであるから、周知性を取得したと主張している右時期から時を経ずして本件訴訟を提起し得たにも拘わらず、その後二〇年以上晋の右販売行為を放置してきた。すなわち、原告は晋が被告商品を製造販売することを黙示的に承諾したのであり、原告は晋の右行為を差止めることはできないというべきである。
2 原告
(一) 明示の使用許諾について
(1) 乙一は、重要文書のあり方として不自然である。
そもそも、本件合意が正式になされていたというのであれば、正式な合意書、契約書を作成したはずである。しかし、そのような合意書、契約書の類いは一切存在しない。
また、謙や徳は、この文書の写しも控えも一切保有していない。その内容が被告らの主張するような重大な合意を証するものであったならば、極めて重要な合意を記する文書として、謙や徳も、写しなどを保管しておくところであるが、そのようなものは一切存在しない。
さらに、乙一は、数葉の文書であるが、何らの印鑑の押印もなく、何らの割印又はこれに類する署名もない。
(2) 乙一による合意の不成立
被告らは、昭和二六年四月一日付けの「〓様との取引に関シテハ」から始まる文章(乙一の1の3)において、本件合意が成立した旨を主張するようであるが、次の理由からそのような合意は成立していないことが明らかである。
謙及び徳が、事業分割を前提とした生産体制の見直し又は移管等ないしは右の合意に即した対外的な発表なども一切行なったことなどない。また、謙及び徳ないし原告側において、右のいわゆる事業分割の合意に即した行動が取られたことは一度たりともないのである。
また、晋側も、本件合意など一切守っておらず、現に、晋は、本件で問題とされているとおり、美術織物の製造販売の分野にも手を染めているのである。
さらに、昭和三一年の新聞記事(甲五五の1ないし3のもの)の掲載等のその後に発生した出来事は、本件合意には全くそぐわない。
そもそも、昭和二六年三月下旬から四月初めにかけての時期において、謙及び徳と晋ないし同人が設立した龍村商工との間で、事業分割というような合意が成立する局面は一切なかった。
すなわち、龍村織物の経営不振問題は、昭和二五年春からの銀行団の要請による第一次合理化の実施、晋以外の龍村一族の龍村織物からの放逐、そして、同年暮れの龍村織物の第二次合理化の実施とその失敗、晋の龍村織物の退社、東京への出奔及び龍村商工の設立、と目まぐるしく事態が推移する中で混迷の度を深め、翌二六年の春ころは謙及び徳らによる残された龍村一族の手による事業再開のための活動と晋による龍村商工の活動とは相容れないものとして、その対立状態は頂点に達していた。そういった状況の中で、謙及び徳としては、龍村商工の活動自体を容認することができないものと認識していたのであり、同人らが龍村商工あるいは晋との間で、進んで事業分割の合意をするはずもなく、また、そのような合意をする必要性も全くなかった。
(3) 乙一の記載からも、合意が成立するに至っていなかったことが十二分に読み取れる。
① 被告らがそれをもって事業分割の合意であると主張する乙一の1の3(昭和二六年四月一日付け)の「第一部商品は謙、第二部商品は龍村商工とする件」は、あくまでも「〓様(高島屋を指す)との取引に関シテハ」というものであり、一般的に、帯地を中心とする美術織物と大量生産品の製造販売につき事業分割するというようなものではない。このように、高島屋との関係についてだけ、このような事業分割をするということは不自然であり、かつ、そもそも不可能である。
② また、乙一の1の3の「第一部商品は謙、第二部商品は龍村商工とする件」については、その次の行に「一、」の左端が欠けたような記載があり、かつ、その下は空白になっており、右の「一、」が抹消されるでもなく、そのまま記載が残されている。
この「一、」の記載の中断は唐突であり、また、その続きとなるような記載は次葉には見られず、用紙がここで断ち切れていたことの証左と考えられる。
③ 乙一の1の3の次の葉に「検査役選任の件」の記載がなされている。しかし、右のとおり、これと前葉の「第一部は謙、第二部は龍村商工とする件」及びその次の行の「一、」は、当初は、連続して綴じられた状態で存在していたものではない(後記のとおり、バラの和紙に記載したものであった)。おそらく、徳の署名を取る際に、両葉が連続するものとして同人に説明された疑いが極めて強い。
したがって、「検査役選任の件」の直後にある前沢源造の署名、並びに、「南禅寺家賃収入の件」の直後にある前沢源造、謙及び晋の署名は、「第一部は謙、第二部は龍村商工とする件」及びその次の行の「一、」を受けてなされたものではなかった。
そして、この「検査役選任の件」に署名した前沢源造の署名が、「南禅寺家賃収入の件」の直後に重ねてなされていることは、各項目に関する同意の個別性を窺わせるだけでなく、「検査役選任の件」の部分で協議事項がいったん、途切れていることを示している。
④ 「南禅寺家賃収入の件」の直後には、前沢源造及び晋の他、謙の署名もなされている。これは、「南禅寺家賃収入の件」だけでも了承を取りたいとする前沢源造の哀願に対し謙も応じざるをえず、「南禅寺家賃収入の件」に対しては、謙も同意し署名したためである。
(4) 乙一の原本の存在形態
乙一の原本の存在形態は、製本された和綴の帳面ではなく、当初、一枚一枚のバラの和紙であった。
被告は、原本は製本されていた旨主張するが、乙一の1の1には、昭和二六年三月二五日以前の部分は何ら存在したとの形跡がなく、何らの前文、タイトルもなく、昭和二六年三月二五日(乙一の1の1の二枚目)及び昭和二六年四月一日(乙一の1の3)並びに昭和二六年四月二日(乙一の1の2及び4)の記載がされているのである。また、昭和二六年四月二日以降の部分も何ら存在していないなど極めて不自然なものである。
これまで行ってきた原告ないしその関係者又は関係会社と晋又はその関係会社とのすべての裁判の中で、原告側では、和綴された状態のこれらの書証の原本の提示を受けたことが一度もない。
(5) 過去の判決における認定
① 東京地方裁判所昭和三四年(ワ)第九四七〇号建物宅地明渡等請求事件判決
右判決においては、甲七一の龍村謙の原告本人尋問が実施されていたため、記録上以上の点が顕出され、乙一が正当に評価されていた。すなわち、右判決は、「乙第一号証の一、二の中には『所謂第二部商品(大量生産品)の製造販売は龍村商工株式会社で行ふ。』旨の部分があるがその記載の体裁及び原告本人尋問の結果からしてはたして当事者間にその旨の諒解が成立したといい得るかどうか疑問であり、とつてもつて被告晋ないし被告会社が本件建物の使用を許されたことの証とはなしがたい。」と認定した。
② 東京地方裁判所昭和四七年(ワ)第九九一号商標権侵害差止等請求事件判決及びその控訴審判決
原告と晋の関係会社との間で争われた商標権侵害差止等請求事件及びその控訴審判決においては、甲七一が証拠として提出されておらず、かつ、前記書証の合意の点については主たる争点とされていなかったため、審理不尽により右の認定に至らなかった。
この訴訟では、乙一は、被告代表者龍村晋本人尋問において「後に提出する乙第二〇号証」としてその一頁(「前沢源造の署名入りの文書」)のみが初めて訴訟上提出され、後にようやく書証の全部が「乙第二三号証」として再度提出されている(甲九二の1・2)。他方、甲七一は証拠として提出されず、原告代表者龍村徳本人尋問においても右書証に触れられることもなく、何らの論議も行われないままに認定されたものであって、右の判決は参考にされるべきものではない。
(6) 結局、乙一は、当時の相争っていた関係者の間の諸々の話し合い、調停の試みの中で作成された経過的な文書に過ぎず、現段階において法的な効力を持つような文書ではない。
それは、謙、徳及び晋の父である初代平蔵の依頼を受けた前沢源造が、何とか、右兄弟間の仲を取りもつよう努力したが、結局、その努力が実らず、まとまらなかった経過の中で作成された文書であって、誰もそのような合意が成立したと考えた者はいなかったし、また、前述のとおり、それが守られたこともなく、その法的な効力はない。
(二) 先使用について
晋及び実質的に同人が経営する会社は昭和二五年未から三〇年間、袋帯地、袋帯の製造販売をしたことはない。晋が被告帯一ないし三の製造販売を始めたのは昭和五七年ころであり、被告裂地四ないし七の製造を始めたのは、昭和五〇年ころからである。
(三) 著作権の行使について
原告帯一ないし三は、美術の著作物に当らないので、被告の著作権に基づく主張は理由がない。
七 争点5(公知公用の模様)についての当事者の主張
1 被告
被告模様四は正倉院に伝わる古代裂「赤地花文錦」と全く同一であり、被告模様六は正倉院に伝わる古代裂「紫地山羊花文錦」と全く同一であり、被告模様七は正倉院に伝わる古代裂「花鳥文長斑錦」と同一である。また被告模様五は前田家に伝わる名物裂「有栖川錦(鹿紋様)」とほぼ同一である。
ところで、古代裂や名物裂の模様は、万民の共有財産であり、いかなる者も複製し模倣しうるものである。特定の者にその複製や模倣を独占させ固有の財産とすることは、到底許されるべきことではない。
古代裂や名物裂の模様は、創作者が所有していた著作権等の権利が既に消滅していることが明白なものであり、長期にわたり多くの者が繰り返し複製し使用してきたものであって、公知公用の模様となっている。かかる公知公用の模様の複製使用は、いわゆる先行技術の使用・実施にすぎず、適法なのであって、これを差止めることは実質的正義に反し到底許されるべきではない。
仮に、特定の者がその複製や模倣を独占することができるとするならば、他の者は古来日本に伝わる模様は全く使用できないばかりでなく模倣もできないことになり、日本文化の保存、承継、発展に多大な障害となる。万一、右独占者が右模様を使用しなくなった場合、あるいは承継者の不在等により右模様の使用継続が不可能となった場合、日本国の財産を保存し、承継し、発展させる途が杜絶してしまうことになる。特定の者にその複製や模倣を独占させ固有の財産とすることは絶対に許されるべきことではない。
したがって、原告は被告らに対し右模様の使用を差止めることはできないというべきである。
2 原告
被告は、被告模様四ないし七が、正倉院裂や名物裂の模様と全く同一である旨主張するが、両者は、配色はもちろん、図柄についても、かなり異なることは一見明瞭である。これに反して、被告裂地四ないし七と原告裂地四ないし七とを比べると、差異を見付け出すのが難しいほど酷似している。
例えば、初代平蔵が復元した裂地に名物鹿文有栖川錦(甲一〇の名物裂)があるが、これは名物裂をそのまま模したものであって、配色が全く異なり茉色を多く用い、鹿文がすべて同一方向(右向き)に向いているなど、原告裂地五とは著しい違いがある。
八 争点6(権利の濫用)についての当事者の主張
1 被告
(一) 仮に、本件各模様が商品表示として周知性を取得しているとしても、被告が被告帯一ないし三及び被告商品四ないし七を販売する行為(ひいては、晋が被告各商品を製造販売する行為)を不正競争行為として原告が差し止めることは信義則に反し権利濫用に当たり許されない。
すなわち、原告は、自らが初代平蔵・謙の事業を承継したと主張しており、被告もこれを否認するものではないが、原告のみが承継者ではない。
晋は、前記のとおり、昭和一五年から初代平蔵の薫陶を受け、粉骨砕身働き続け、「龍村の事業」の発展に特別な寄与をしてきた。晋は、特に昭和一〇年に謙が事業を主宰してからは、未だ平蔵の力量に至っていなかった謙を補佐し、また同一六年から同二〇年一〇月まで謙が兵役に就いて不在になっていた間は、戦後統制経済と統制品であった原料絹の買入等に腐心し唯一人で龍村織物美術研究所を切り盛りし、また自分自身の家族ばかりでなく平蔵・寿美(両親)や謙・徳の家族及び元を扶養し、特に元には高校や大学への学費を捻出し社会人になる為の素養を身につけさせるなどし、終戦後、謙が家業に戻るまでの晋の努力は筆舌に尽くしがたいものであった。なお、徳は、戦後昭和二〇年になって家業に従事するようになったのであり、また原告の代表者である元は、昭和二八年ころになって家業に従事するようになったのである。
原告は、晋が維持・増大に寄与した龍村の名声や信用を基礎にしているからこそ、その製造にかかる商品が販売でき、今日に至っているのである。
また、晋は、被告各商品を前記の時期より継続して販売し、展示会を開き、販売のために宣伝をしてきた。本件模様一ないし七が周知著名となったのであるならば、晋の右販売及び宣伝広告の実績も多大なる貢献をしているのである。
原告は、晋が右のように自らの命のように守り維持し発展させた「龍村の事業」を継承したのであり、また、元は、晋の援助により成育し学業を身につけたのである。原告は、自らの存在を維持しその発展に寄与した者に対し、その生計の基であり生涯の事業を差し止めることは信義則に反し許されない。
(二) 晋は、原告代表者らと同じく初代平蔵の共同相続人であり、原告と同じく初代平蔵が起業した「龍村の事業」の継承人である。
初代平蔵は、自ら起こした研究や事業を一人自らのものとせず、子供達や使用人が仲良く継承することを望んでいた。特にその創作した模様については、万人の共有財産であると考え意匠権の登録出願もしなかったのであり、真似られてこそその模様の良さが証明されるというのが口癖であった。また、織物は、模様をいかに良く見せるかであって織り方にその技や価値を見出し、織り方に関する発明・考案については数多く出願し権利化していた。
右のような考え方で事業を展開した初代平蔵の相続人である原告代表者(元)が、その事業の承継にあたり、共同相続人である晋に対し、初代平蔵の事業を承継し得なくすることは信義則に反し許されない。晋は、右代表者にとって兄であり兄弟子なのである。
(三) 不正違法な取引と主張して取引行為を差し止める者は、自らも不正違法な行為をすることがあってはならない。本件においても原告はクリーンハンドでなければならない。
本件模様四ないし七が初代平蔵の創作にかかるものであることは既に述べたが、初代平蔵の創作にかかった右模様は、裂地に織り込んだ場合、織機の構造や織り方から、全体的にぼやけ美的観点からは納得し得ないものであり、また、重量もあって用途が限られていた。
そこで、晋は、商品として需要を高めるため、右模様を鮮明化させ布地を薄く軽量化する必要性を感じ、昼夜兼行の努力の末、細い糸を使用し、巾を挟くし模様の大きさを縮小できるよう従来の織り方に改良を加え、昭和二二年ころようやく現在製造されている地風の三重経による糸の組み方として成功し、ようやく右目的を達することができた。
この考案は、初代平蔵も称賛し、以後、他の模様についても次々と導入していったのである。原告は、晋が考案した右三重経による織り方を晋の同意を得ることなく利用し本件商品を製造販売しているのである。換言すれば、原告は晋の右考案を盗用したのである。
(四) 原告又は原告代表者である元は、謙が創作した本件模様二を謙の承諾なく使用し、その作品を昭和五二年八月の高島屋の展示会に出品した。原告は謙の著作権を侵害し、その創作したデザインを盗用したのである。
謙のデザインを盗用して商品を製造販売したり、盗用した晋の考案を利用し本件商品を製造販売している原告が、晋に対し被告商品を製造販売する行為を差止めるのは、信義則に反し許されるべきではない。
(五) さらに、本件模様四ないし七は、古代裂や名物裂の模様であり、古代裂や名物裂の模様は、創作者が所有していた著作権等の権利が既に消滅していることが明白なものであり、長期にわたり多くの者が繰り返し複製し使用してきたものであって、公知公用の模様となっていて、万民の共有財産であり、いかなる者も複製し模倣しうるものである。
かかる公知公用の模様の複製使用は、いわゆる先行技術の使用・実施にすぎず、適法なのであって、これを差止めることは実質的正義に反し到底許されるべきではないし、特定の者にその複製や模倣を独占させ固有の財産とすることは到底許されるべきことではない。
以上のとおり、原告が被告に対し、被告各商品の製造販売を差止める行為は信義則に反し、ひいては権利濫用にあたり許されないというべきである。
2 原告
晋は、戦時中から一時京都にあって初代平蔵の織物製造事業に加わっていたが、昭和二四年秋ころに、初代平蔵以下一族の事業活動の中心であった龍村織物が経営不振となった際に、再建策についての意見の相違から他の兄弟を排して一人でこれに当たって失敗し、昭和二五年末莫大な負債を残したまま、融資銀行団や初代平蔵及び他の兄弟の意見に反して、東京に龍村商工を設立して上京し、以後初代平蔵を中心とし謙、徳、元が協力して維持発展に努めた織物製造事業とは全く関係を絶った。
晋は、その後も順次数社を設立し、これを経営して、細々と交織のカーテン地などを製造していたが、その後裂地の製造を始め、さらに最近では仕立袋帯地の製造も始めたが、いずれも関東周辺の業者に下請させている。
晋は、京都で初代平蔵を中心とする織物業に加わっていた時は、経理などの事務的部門を担当し、製造の技術的部門を担当したことはなく、また上京の際に同人に追随した技術者もいない。
したがって、晋は、新しい優れた模様のものを創作する技術を有しないので、原告の製品を下請業者に渡し、そっくり真似たものを製織させている。被告裂地四ないし七は、このようにして作られたものである。
晋は、いくつかの会社を設立し、実質的にその経営者であったが、経営は放漫で堅実性に欠け、いずれも盛業をみることなく失敗しており、経営規模も極めて微々たるものであった。
京都では晋の上京後、昭和二七年四月、融資銀行団の意向により、再び龍村一族に龍村織物の経営を委ねることになり、初代平蔵を重役陣に加え、徳が代表取締役、初代平蔵が取締役、元が監査役に就任した。
その後昭和三〇年に原告が設立され、織物製造部門を承継し、関連企業の中心となって、順調に再建の道を歩んだ。
初代平蔵は、晋が京都を去った後、再建のため前記のように、昭和二七年四月龍村織物の取締役に就任し、原告設立後は最高顧間として、昭和三七年に亡くなるまで謙、徳、元らと事業の発展に協力した。
原告帯一ないし三は、原告会社設立後少なくとも二十数年間は原告のみが製造販売し、一般に高い評価と多くの愛好者を得てきたこと、それによって本件模様一ないし三の前記特徴が原告の帯、帯地であることを示すものとして広く知られるところとなったことは、前記のとおりである。初代平蔵は生存中原告の最高顧間として社内の一員となり、個人としては営業せず、原告のみが正当な承継者として帯地を製造していたのである。不正競争防止法によって保護され、権利を行使しうるのは原告であり、被告の権利濫用等の主張は理由がない。
九 争点7(原告の損害)に関する当事者の主張
1 原告
被告は、昭和六〇年五月一日から同六三年三月三一日までの間、被告帯一の白地及び黒地を、それぞれ一本当たり、一七万四〇〇〇円で仕入れてこれを二九万円でそれぞれ一五本ずつ卸売りし、また、被告帯二を、一本当たり一七万四〇〇〇円で仕入れてこれを二九万円で合計一〇本卸売りし、さらに、被告帯三を、一本当たり一一万四〇〇〇円で仕入れてこれを一九万円で合計二〇本販売し、これにより合計六一六万円の利益を得た。
2 被告
被告は、前記1の期間内に、被告帯一を、一本当たり、一七万三〇〇〇円で仕入れてこれを二二万円で合計六本卸売りしたこと、被告帯三を、一本当たり、一一万六〇〇〇円で仕入れてこれを一七万円で合計一二本卸売りしたことはあるが、被告帯二は、販売したことはないし、右期間以降は、仮処分事件があったため、販売していない。
第三 争点に対する判断
一 争点1(本件模様一ないし七の商品表示としての周知性)について
1 帯や裂地の模様の周知性について
帯や裂地の模様は、本来、帯や裂地に美観を与え、その商品価値を高めることを目的とするものであって、商標等と異なり、帯や裂地の出所を表示することをその本来の目的とするものではないが、副次的に出所表示機能を持つに至ることもないわけではない。すなわち、不正競争防止法二条一項一号は、「他人の商品等表示(人の業務に係る氏名、商号、商標、標章、商品の容器若しくは包装その他の商品又は営業を表示するものをいう。)」と規定しているのであるから、帯や裂地の模様自体が、商標等と同様に、商品の出所を表示する機能を持つに至った場合は、このような帯や裂地の模様自体も、同条項にいう商品表示となりうるものである。
しかし、帯や裂地の模様は、本来、帯や裂地に美観を与え、その商品価値を高めることを目的とするものであって、商標等のようにその出所を表示することを目的としているものではなく、需要者としても、帯や裂地の模様を本来的に出所を表示するものとして認識するわけではないこと、及び、後記認定のとおり、帯や裂地については、毎年極めて多数の種類の模様が年間を通じ多数の業者により新たに生産されていること、また、後記認定のとおり、原告が製造する錦帯の柄数だけでも五〇〇位あり(地色の違いを考慮すると一〇〇〇を超える)、有力な銘柄に絞っても一〇ないし三〇位存在し、また、原告が製造する裂地についても、現在では八五銘柄製造販売されており、原告のパンフレットに掲載されている代表的な銘柄に絞っても四三銘柄存在していることを考慮すると、本来商品の美観を高めることを目的として作られる帯や裂地の模様が、商標等と同様に、副次的に出所表示機能を有し同条項における周知商品表示として保護されるためには、第一に、帯や裂地の模様が、他の帯地や裂地の模様と比べ、需要者の感覚に端的に訴える独創的かつ印象的な意匠的特徴を有し、その意匠的特徴が商品表示としての統一的な把握を可能にするものであって、需要者が一見して特定の営業主体の商品であることを理解することができる程度の識別力を備えたものであることが必要であり、第二に、当該帯地や裂地の模様が長期間特定の営業主体の商品に排他的に使用され、又は、当該商品ないしその模様が短期間でも強力に宣伝広告されたものであることが必要というべきである。
また、不正競争防止法の前記条項の「需要者の間に広く認識されている」との要件における「需要者」とは、原告及び被告が販売する商品が共通している場合は、当該商品の取引者ないし消費者をいうと解すべきところ、本件においては、原告帯一ないし三は、後記認定のとおり、高島屋を通じて一本当たり七八万円から二三〇万円以上の価額で販売されている極めて高級な帯であり、被告帯一ないし三も他のデパートで五〇万円前後の値段で販売されている高級帯であるから(甲五四)、本件模様一ないし三の周知性を検討する場合には、着物の帯の中でも、このような極めて高級な帯を購入する限られた消費者及びその取引者を対象にして判断すべきである。これに対し、原告裂地四ないし七及び被告裂地四ないし七は、後記認定のとおり、テーブルセンター、仕立帯、ハンドバックや札入れ等の袋物、和装小物、茶道具、ネクタイ等として、デパートや専門店ないしは、後記の西陣織会館のような場所で、多数の一般の消費者ないしは観光客に販売されるものであるから、本件模様四ないし七の周知性を検討する場合には、このような多数の一般の消費者ないし観光客及びその取引者を対象にして判断すべきである。
2 初代平蔵の業績と原告設立前後の経緯並びにその後の発展(以下においては、晋は初代平蔵の三男であり、原告の代表者である元は初代平蔵の五男であること、及び、原告設立前後の事実経過は、争点1のみならず、争点2及び4と密接な関係を有することから、詳しくその経過を認定する。)
証拠(甲一〇の2ないし4、二四、四五、四六、四八の1ないし3、五三、五六の1、七一、七七、乙二の1、一八の1・2、二一、二三、二四の1・2、二七の1・2、三〇、五五、六五、証人小野、証人龍村晋、原告代表者)及び後記括弧内の各証拠によれば、次の事実が認められる。
(一) 初代平蔵(明治九年一一月四日生、昭和三七年四月一一日没)は、明治二七年に織物販売業を開始し、明治三九年龍村製織所を創設して、個人として龍村の織物の製造販売業を営む傍ら、明治年代に織物に関する様々な発明考案をし多数の特許権や実用新案権を取得し、また、大正八年には東京と大阪において「第一回龍村平蔵織物美術展覧会」を開催し、その作品を展示して好評を博し、大正一〇年ころには美術会の著名人の発起になる織宝会から古代裂、名物裂の復元の依頼を受けて、そのころから昭和にかけて、正倉院所蔵の「赤地花紋錦」(本件模様四の原型であるもの)、「花鳥文長斑錦」(本件模様七の原型であるもの)などの多数の古代裂や、前田侯爵家所蔵の「大牡丹唐草」「有栖川錦(鹿紋様)」(本件模様五の原型であるもの)等の名物裂の研究復元をして、その名声が確固たるものとなり、また、高級帯地の製織にも力を注ぎ、伊達家所有の印錦中の図柄である「牡丹唐草」を再現したり、各種織物上に各種図柄、模様を自由に織り出す技法を駆使して、本件模様三の「大牡丹印金錦」や本件模様一の「威毛錦」のような新図柄、模様を創作し、これらの帯地及び裂地は、初代平蔵の製織に係る「龍村の織物」として高い評価を得ていた。また、初代平蔵は、大正一二年ころから昭和初期にかけて、当時としては破格の名誉に属する宮内省からの製品注文もたびたび受けるようになり、その名前は著名なものとなっていった。
初代平蔵は、当初は合資会社龍村商店として事業を営んでいたが、震災の後、合資会社龍村商店が株式会社龍村商店となったときから同社とたもとを分かち、その後個人として高島屋を取引の相手として事業を継続した。二男謙は、昭和四年に東京帝国大学美学美術史科を卒業し、欧州を旅行した後から家業を手伝うようになっていたが、初代平蔵は、美術織物の研究に没頭するために、昭和一三年ころ龍村織物美術研究所を創設し、謙を同研究所所長として、家業を承継させ、自らは古代裂、名物裂等の研究、復元及び新図柄の研究製織に専念するようになった。また、三男晋は、昭和八年に東京帝国大学経済学部を卒業後、大手紡績会社に勤務していたが、謙が応召で不在となってしまうこともあり、昭和一五年末に同社を辞職し、同一六年から終戦まで応召で不在となった謙に代わって、同研究所次長として、同研究所の生産販売活動に従事した。また、四男徳は、早稲田大学理工学部機械科を卒業し、戦後復員すると同研究所の仕事に従事するようになった。さらに、五男元は、昭和二三年に京都大学文学部を卒業後、しばらくの間教員として働き、その後家業に従事するようになった。
戦時中は、奢修品等製造販売禁止令が出され、龍村の事業の存続が危ぶまれたが、京都府知事などが染色美術を含めた工芸美術保存を商工省に働きかけ、その結果、龍村織物美術研究所が技術保存のための特別な認可を受けることができた。龍村織物美術研究所は、終戦後、海軍軍需製造のために割り当てられた生糸を保有していたこと、進駐軍や日本繊維公団等から大量の注文を受けたことから、非常な活況を呈し、そのため、その事業主謙は、終戦直後、巨額の収入を得、謙名義で各地に工場や研究所用の不動産等を購入した。また、謙らは、昭和二三年四月一日、取引金融機関の要請で、謙を代表取締役、晋を取締役(専務)、徳を取締役として、龍村織物を設立したが、謙が戦後の個人事業の中で獲得した資産の中から、工場とその敷地、生産設備、営業用施設等のうち、研究用のものを除いてこれを現物出資したため、同社の株式の大半は謙が所有することになった。龍村織物は、前記の事情から設立後約一年間隆盛を極めていたが、毛糸や綿糸の統制解除や、ドッヂラインの緊縮財政政策や進駐軍の規模の縮小による注文の減少のため、八〇〇人の従業員を抱えて、その後急激な経営危機に陥った。龍村織物の銀行団は、同社に対し、人員削減の要請をし、その第一次合理化案は八〇〇人の従業員を二〇〇人に減らせというものであった。晋らは、研究所で働く二〇〇人の従業員も含め、人員を大量に削減する方向で経営建て直しを図ったが、これに反対する謙や徳と対立するようになり、銀行団の強い要請を受けて、人員削減策を実施するために様々な紆余曲折があり、ついに昭和二四年九月に役員会を開き、その結果、晋と田中市蔵、浅井修吉らが同社に残り、謙、徳らは、同社の経営より手を引くことになり(登記簿上は、謙らは、昭和二五年四月一八日付けで取締役を辞任し、晋は、同日付けで代表取締役に就任している)、謙及び徳らは、龍村織物美術研究所に分離して残ることになったが、昭和二五年二月には、同研究所もついに閉鎖された。一方、晋も、龍村織物の再建のために田中市蔵が担保に提供していた個人資産について担保権が実行される結果になったこと等の責任を取るため、昭和二五年末には、龍村織物から退任することになり、同社の経営は、田中市蔵、浅井修吉に委ねられることになり、晋は、東京に上京して昭和二五年一二月二九日龍村商工を設立することになった。なお、晋の計画では、東京の龍村商工と前沢源蔵が経営する大阪の龍村商店とで営業し、それぞれ相当額の注文を龍村織物に出し、同社の再建を図るということであったが、謙らとの仲がその後円滑ではなくなったため、その計画は実行されないままに終わった。また、晋は、龍村商工が営業を主目的としていたため、当時の龍村織物の技術者を東京へ引き連れていったわけではない。
龍村織物は、右当時、国税、地方税、各種社会保険料も滞納し、不動産や動産について差押を受ける状態であり、また、謙、晋及び徳らも銀行借入金に対し個人保証をしていた。そして、龍村織物は、昭和二七年二月、取引金融機関のすべてから融資が途絶し、従業員の給料不払いも生じたため、代表者である浅井修吉が自己破産を申し立てるに至った。その後、初代平蔵、謙、徳らと銀行融資団は、昭和二七年四月、日本銀行の斡旋により、債務の返済についての合意をし、初代平蔵が龍村織物の取締役、徳が同代表取締役、元が同監査役に再び就任した。また、有限会社龍村製織所は、その前年の八月に謙を代表取締役として設立されており、龍村織物の債務を返済することになっていたが、昭和二九年二月に、右有限会社も手形不渡りを出すなどしたため、謙は、事業経営の第一線を退くことになった。徳と元は、昭和二九年三月五日に、有限会社龍村美術織物を設立し、その一年半後には、その運営が軌道に乗ってきたため、取引金融機関の要請に基づき、初代平蔵と協議して、同三〇年一二月三日、原告を設立し、有限会社龍村美術織物の営業一切を引き継ぎ、初代平蔵と謙がその顧問に就任し、徳が代表取締役、元らが取締役に就任した。
なお、有限会社龍村美術織物は、昭和三八年一〇月、社名、目的を変更し、増資をして、有限会社龍村織寶本社となり、原告の商標権及び不動産を所有管理し、これらを原告に使用させている。また、有限会社みすず撚糸が、昭和三四年七月二二日に設立され、同社は、同四七年一〇月一五日に織宝宛に、同五三年一月二〇日に龍村織宝本社に商号変更している。
なお、龍村織物の債務は、その後、修学院の工場等の龍村織物の資産の一部を処分し、また、原告の毎年の営業利益の一部をもって返済した。
(二) 初代平蔵は、昭和三一年五月三〇日、織物美術に関する業績により芸術院恩賜賞を受賞したが、その受賞決定が同年二月に新聞で報道され、同年春ころ東京、大阪で開かれた高島屋の展示会で、原告が製造した帯は、初代平蔵創作の帯として、好調な売れ行きを示した。
また、朝日新聞は、昭和三三年秋、東京と大阪の高島屋で「平蔵翁回顧八〇年 龍村織物芸術展」を開催し、初代平蔵の織物美術に関する業績を詳しく紹介した。
さらに、初代平蔵は、昭和三三年一一月に、織物の発明改良に関する功労により、紫綬褒章を受けた。
原告は、その顧問である初代平蔵の名声と業績を承継した企業として、経済の高度成長ととともに、その売上を順調に伸ばしていったものであり、昭和三五年には、東宮御所内装裂地を製織し、同四三年の新宮殿造営に際しては、綴織タピスリーその他を製織し、同四九年には最高裁判所内に展示するタピスリー等を製織している。
謙は、初代平蔵没後の昭和四一年以降、二代目平蔵と称していたが、原告と金銭問題を巡って対立し、原告を解雇されたため、同五一年三月には、株式会社龍村平蔵織物美術研究所を設立し、その所長になっていた。謙は、昭和五一年一一月に元が謙に無断で三代平蔵襲名を関係各方面に通知したため、元との争いが表面化し、同五二年八月二九日の毎日新聞に、「織の龍村骨肉の争い織る」「平蔵襲名ならぬ!」「三代目披露で衝突、二代目の兄、弟と非難の応酬」との見出しの記事が掲載された(乙二〇の2)。
なお、謙は、昭和五三年一一月二八日死亡し、その後その息子龍村順においては、株式会社龍村平蔵美術織物研究所の商号で亡父謙の事業を承継し、西陣で手織りの機械数台を使用して高級帯地の製造販売を継続していた(ただし、順は、昭和五七年七月一二日、大阪高等裁判所において成立した原告との和解において、原告との間で「龍村平蔵」その他龍村美術織物及び龍村織寶本社が使用する商号及び商標と同一又は類似した商号、商標は一切使用しないこと、及び、その商号を昭和五七年九月末日までに株式会社龍村光峯美術織物に変更することを合意している。)(甲七四)。
なお、初代平蔵の二女龍村慶子は、主に昭和三〇年代において、龍村装飾株式会社ないしは龍村工芸株式会社の商号で大阪において原告の裂地の販売業を営んでいたことがあった。
これに対し、晋は、前記のとおり、昭和二五年に龍村商工を設立した後、同三〇年に東龍織物株式会社を設立して同社を製造工場として、室内装飾裂地、カーテン、テーブルセンター、和装小物、ハンドバック等の製品を販売し、一時は高島屋の室内装飾部に口座を有していたこともあったが、同三八年四月には、後記のとおり、日本橋織宝館にあった本店を他に移転して営業を継続し、その後、その販売部門として、同四〇年七月二七日に株式会社タツムラを、同四五年四月二〇日に株式会社龍村織宝を設立して同種営業を継続したが、同四六年五月下旬には、龍村商工が手形不渡りを出すに至った。晋は、昭和四八年二月一三日に有限会社龍村織物を設立し、その後は同社をその活動の中心とし、また、同五〇年代後半以降は被告と継続的に取引をするようになり、被告を通じ、袋帯地、袋物、和装小物その他を高島屋以外のデパートや呉服専門店等で販売するようになった(甲二三、四八の2、七六、乙二の2ないし5、二一、証人龍村晋)。
しかしながら、右以外には、龍村の名前で織物を製造販売している業者はなく、晋の事業も、長期間継続しているとはいえ、小規模なものであり、特に帯地については、昭和三〇年代、四〇年代は、原告以外に龍村の帯地を製造販売していた者はいなかった。
原告は、現在では、資本金四五〇〇万円、京都府、滋賀県、岐阜県に合計五つの工場を、東京、名古屋、京都、大阪、札幌に営業所を有し、その従業員数は約四二〇名であり、その帯地を、京都市内の工場で四〇数台の手織機により製織し、その裂地を、京都府下の工場で製造している。
(三) 原告製品ないし「龍村の帯ないし裂地」については、テレビや新聞等で宣伝広告することはほとんどないが、その紹介や推薦の記事が各種の雑誌印刷物に掲載されたり、また、文化的な行事の際に紹介されることも少なくはない。
たとえば、昭和三五年九月一日発行の週刊「生きる女性」には、米国へ訪問される美智子妃殿下の着物の帯の製作は龍村であるという記事の中で、原告が帯に関しては最高の権威である旨が記載されている。なお、同誌には、原告帯一ほか数枚の帯を被写体とする写真が掲載されているが、写真の被写体についての特段の説明、解説はない。(甲五〇)
また、昭和三六年一〇月八日から同三七年一月二七日まで朝日新聞に連載された川端康成の小説「古都」にも、「龍村の帯」や京都の龍村の店舗の様子(古代裂やテーブルセンター、袋物、紙入れ、ネクタイ等が置かれていること、西洋人向きであるため、帯は置かれていないこと等)が記載されているが、古代裂や帯の模様の説明はない(甲一九)。また、昭和四三年九月から同四五年四月まで雑誌新潮に掲載された三島由紀夫著の小説「暁の寺」には、「龍村から正倉院写しの布地を取り寄せ、手ずからカーテンを縫った」との記載があるが、それらの模様についての説明はない(甲三〇)。
さらに、津村節子著の「心をつむぐ」(大和書房一九八一年七月一〇日発行)の二〇〇頁には、「帯といえば西陣、西陣といえば龍村、女でその名を知らぬものはあるまい。……研究所では古代裂の研究複製をしており、これが仕事のバックボーンになっているという。」との紹介がされているが、帯や古代裂の模様についての説明まではない(甲二〇)。
またさらに、楠本憲吉編著の「日本の一流品」一九七〇年一二月一〇日ペリカン社発行の九七頁には、「錦地の袋帯といえば、京都の竜村、川島織物の両者を挙げなければならない。龍村の豪華絢爛たる色彩と文様。龍村は高島屋……の特選売場なら求められる」との記載がある(甲二一)。また、昭和四六年八月一日講談社発行の「これが新しい一級品だ」の二六四頁には、「つづれ帯の一級品は、帯の川島か竜村の帯かといわれるほど、優れた帯を制作している川島と龍村、それに高度な技術を誇る松居織物の製品が逸品」との記載があり、ほかに、小川善三郎の博多帯や紫紘の袋帯、高瀬の名古屋帯等が挙げられている(甲二二)。
ただし、いずれの文献も、龍村の帯に対する高い評価について触れているだけであり、龍村の特定の帯地の模様や裂地の模様について説明したり、帯や裂地の模様を写した写真を掲載したものは、前記週刊「生きる女性」「を除いては存しない。
また、倉橋正次監修昭和五八年五月三〇日講談社発行の「宮内庁御用達・日本の一流品図鑑」では、染織工芸の分野で原告を紹介しており、古代裂を復元し、これをインテリア用品、バッグ等に利用した製品を製造している等の紹介記事や、原告製の「名物有栖川錦」の裂地の写真、「大牡丹印金錦の打掛け」の写真が掲載されているが、本件で問題となっているその余の原告帯及び原告裂地の写真の掲載はない(甲三六)。さらに、平成五年に池田書店が発行した「皇室に愛された名品、名店」と題する本には、原告が正倉院、法隆寺などの「上代裂」を復元したこと、芸術性のある帯地を創作し、「帯の龍村」の地位を確立したこと、美智子様御成婚のときのローブデコルテ、紀子様、雅子様納采の儀の際に納入された織物生地等を原告が納入したこと等を記載したうえで、本件模様三(大牡丹印金錦)の写真を掲載しているが、その余の原告帯及び原告裂地の写真の掲載はない(甲八五)。なお、昭和五八年五月発行の交通公社のMOOK一流シリーズー4「皇室御用達・日本の特選品」では、原告を紹介しており、古代裂等の復元や和装小物帯地に格調の高い原告独特の技術を発揮していること等が紹介されているが、原告裂地、原告帯の写真の掲載はない(甲三五)し、高島屋のショッピングカタログ(昭和六三年度用)にも、龍村のネクタイの写真による紹介はあるが、本件で問題となっている原告帯ないし原告裂地のネクタイの掲載はない(甲四〇)。
またさらに、朝日新聞社編集平成元年一〇月一二日原告ら発行「龍村平蔵の世界」には、原告の製品の魅力は「意匠に極めて独創性が強いという点にある。……龍村の帯は一見して、それとわかる著しい個性をもっている。」との北村哲郎(共立女子大学教授)の文章が掲載されており、そのほかに多数の初代平蔵の作品(古代裂、名物裂、帯地)等の写真が掲載されているが、本件で問題となっている原告帯、原告裂地のうち、原告帯三(大牡丹印金錦)、原告裂地五の原型である名物裂(鹿紋有栖川錦)は掲載されているものの、その余の製品の掲載はない(甲五二)。
また、一九九三年(平成五年)六月二二日号の雑誌FRAUには、美智子皇后愛用の帯として原告の帯が多いという記事が掲載されているが、愛用の帯として原告帯一の威毛錦のみが写真入りで紹介されている(甲八四)。
3 本件模様一ないし三の周知性について
証拠(甲一ないし三の各1ないし5、四の1ないし4、一〇の1・2、四六、四七、四八の1・2、五三、五七、六一、六二ないし七〇、八一、乙四の1ないし3、五、二七の1・2、三〇、三四の3、証人小野、証人龍村晋、原告代表者)及び後記括弧内の各証拠によれば、次の事実が認められる。
(一) 初代平蔵の帯地は、前記認定のとおり、主に高級帯地の愛好者等から高い評価を受けていたものであるが、原告は、その初代平蔵を顧問とし、初代平蔵の承継者として、「龍村の帯」の製造、販売を継続してきた。
原告は、帯地のほかにも、ドレス地、裂地、インテリア織物、自動車内装飾物、緞帳なども製造しているが、帯地、特に錦帯は、原告の代表的な商品の一つである。
原告の帯地には、「錦帯」と「龍織り」の二種類があり、前者は、「龍村平蔵製」との商標が付されており、高島屋グループを通じて販売され、一般に格が高いものとされており、柄数も現在では五〇〇位あり、地色の違いを数えると一〇〇〇を超える模様があるがそのうちの有力な銘柄は二〇ないし三〇位であり、中でも高島屋に常置している定番柄は一〇銘柄を超える程度である。なお、「龍織り」は、「たつむら」の商標が付されており、錦帯とほぼ同数の模様があり、高島屋グループ以外の三越、大丸、松坂屋を初めとする全国のデパート、関東関西の大手卸売業者、全国の有名呉服店を通じて販売されている。
高島屋は、現在関東地方に東京、横浜、高崎、柏、玉川、大宮の六店舗、関西地区に大阪、京都の二大店舗、岡山、米子、岐阜に各一店舗などを有しているものであるが、錦帯は、原告設立当初から、毎年春秋に、東京、大阪、京都の高島屋で、「龍村平蔵錦帯展」が開催され、また、横浜、岡山の高島屋では、昭和五一年から同じく開催されてきた。また、東京、大阪の高島屋では、原告設立当初から、京都の高島屋では、原告設立から数年後に、横浜の高島屋では昭和五二年から、原告製品販売のための常設の龍村コーナーが設けられている。さらに、原告も、同様に、毎年春秋に、東京、名古屋、京都において展示会を開催して、広告宣伝に努めてきた。
原告の帯地は、現在錦帯と龍織り両者を合わせて二千数百の模様があるが、毎年必ず製造される模様は、そのうちの一割位である。なお、帯は、古くは丸帯が札装用とされていたが、昭和初期に袋帯が考案され、現在ではこれが多用されている。
なお、昭和五三年八月発行の月刊誌「宝石」の二二九頁によれば、西陣帯の中で、「売上高だけでみると、全業者のトップは、川島織物で二百八十億円(うち帯地が一七%と推定される)。二位は、じゅらくの八十億円、以下龍村美術織物の四十六億円……(以上五十三年四月末」との記述がある(甲三三)。
(二) 原告帯一ないし三
(1) 本件模様一(威毛錦)は、初代平蔵が創作した柄であり、昭和一三年にベルリンで開かれた第一回世界博覧会に出品され金賞を受けている。本件模様一は、①美しい四枚の鎧の袖を二列に並べて長方形の一団とし、その短辺を帯輻いっぱいに描き、②それぞれの袖の模様の間には多少の変化があり、全体としてよく調和し、華やかで若々しく、写実的に表現されており、③この周辺に金銀で桜花ともみじをあしらい、④このようにしてなる模様を替太鼓、太鼓、腹紋に配し、⑤タレに金銀で桜花ともみじを点在させているとの構成であり、鎧の袖のあでやかさを帯の模様に取り入れた点が題材としても珍しく、独創的であり、このような構成により、全体として鎧の袖による若々しく華やかな日本的な美しさを巧みに織り出しており、特に右①の鎧の袖四枚を二列に並べた構成は需要者に強い印象を与えるものであり、初代平蔵の傑作の一つである。
原告帯一は、大正時代から初代平蔵が丸帯として高島屋を通じ販売していた。原告も、設立以降現在まで原告帯一を袋帯として販売しているが、現在でも原告の千を超える帯地の模様の中で、その売上は、円文白虎と並び、二、三位の地位を占めており、現在では、一本あたりの販売価額が約八八万円(金地が一五〇万円)で、年間平均一〇〇本位は販売されている。なお、前記のとおり、昭和三五年九月一日発行の週刊「生きる女性」には、美智子妃殿下訪米の際の着物の帯の製作は龍村であるとの記事が掲載されており、その中で原告帯一を被写体とする写真が掲載されている。また、平成五年六月二二日号の雑誌FRAUにも、美智子皇后ご愛用の帯は龍村の帯であるとの記事と、原告帯一の写真が掲載されている。
なお、帯地に鎧の袖の模様を配したものは、現在においては、別紙比較第一目録のとおり、一部の業者により製造されているものであるが、それらは比較的最近のものが多く、また、鎧の袖の模様をあしらったといっても、本件模様一とは異なる模様と評価できるものである(乙三七の2ないし4・6・7、四〇)。
(2) 本件模様二(千代の冠錦)は、昭和一五、一六年ころ謙が創作したものであり、①王冠の上の中央に、瓔珞をくわえ羽をひろげた鶴を立たせて、これを中央に配し、②王冠から流れでるように、帯幅一ぱいに瓔珞を配し、③このようにしてなる紋様を替太鼓と太鼓に用い、④多くの瓔珞を、両側から中央に向けて並べて、幅の広い帯状の紋様を構成し、これを腹紋と手先に配し、⑤タレには、瓔珞を組み合わせて珠玉を散りばめ、⑥それぞれの紋様に色糸、金銀糸箔、王冠にはさらに色糸暈(ボカシ)を用い、変化の中にも調和と麗しさを表わしているものであり、このような構成により、おめでたい鶴の王冠に美しい瓔珞を配し、調和のある独創的な麗しさを織り出しており、特に右①、②の王冠の上部中央に瓔珞をくわえ羽を広げた鶴を配した構成は需要者に強い印象を与えるものである。
原告帯二は、龍村織物美術研究所等が謙が創作したころから高島屋を通じ高価な値段で販売しているが、龍村の帯の中でも優れた作品の一つである。原告は、原告帯二をその設立時から製造販売し、その販売量は威毛錦、円文白虎についで多く、現在では、一本あたりの販売価額が約七八万円(地色により値段が割高となる)で年間平均七〇本位を販売している。
(3) 本件模様三(大牡丹印金錦)は、初代平蔵が大正年間に、伊達家所蔵の印金裂の中の牡丹唐草文様を大柄に若向きにアレンジして、創作したものであり、中心から左側と右側は模様が同じであり、かつ互いに連続した模様となっているところ、左右の各部の模様は、①二つの大きく華やかな牡丹の花をやや斜め上下に配し、②そのまわりに、花枝に小牡丹の花を添えて、唐草模様風に帯地いっぱいに描き、③これを上下に操り返して連続柄とし、④華麗な配色と印金の多用により豪華な模様とし、⑤タレに近い一部を地味な配色に変えているという構成であり、このような構成により、牡丹の花の美しさと印金の手法と配色の妙により、絢爛豪華な美しさを織り出しており、右①ないし④の構成は、伊達家の牡丹唐草の紋様を若向きで絢爛豪華な模様にアレンジし、独創的に創作したものであり、需要者に強い印象を与えている。
原告帯三は、大正時代から龍村織物美術研究所等が高島屋を通じ相当数販売しているもので、一本当たりの価額が高額となるため、最近あまり製造されなくなった丸帯であるが、その絢爛豪華な模様に特徴があるため、成人式の振袖や結婚披露宴の新婦用などに現在でも根強い人気があり、一本あたりの現在の販売価額は約二三〇万円で、年間平均約三〇本位販売されている。なお、原告の帯地の中で年間三〇本以上販売されるものは約五〇種類以上あり、原告帯三の右売上本数は、原告帯一、二と比べると少ないが、原告帯一、二が袋帯であるのに対し、原告帯三は丸帯であり、一本当たりの価額が袋帯に比べ高額となるのに、現在も丸帯として継続的に販売されていることを考慮すると、その売上本数は、原告帯一、二の売上本数とも比肩しうるものである。
なお、広義の牡丹唐草文様は、名物裂の模様であり、他の名物裂、古代裂と同様に、東京国立博物館や京都国立博物館等に保存されており、別紙比較第三目録のとおり、初代平蔵のみならず、古くから多数の業者により、帯地や裂地の模様として様々に利用されており(乙三七の3・4・6・9・10・11、三八、四〇、四七の1ないし3、四八、四九、五〇)、また、着物や帯地については、牡丹をあしらった模様も数多く存在しているが(乙三七の15ないし32)、本件模様三は、前記のとおり、名物裂の牡丹唐草の模様を初代平蔵が大柄に若向きにアレンジした豪華絢爛な模様であり、名物裂である牡丹唐草の模様と比べ独自の創作性を有する模様ということができる。
(4) 原告帯一ないし三は、高島屋の売場や展示会でも、目に付きやすいところに展示されることが多く、その気品の高い美しい模様や、豪華絢爛な模様は、高級帯の愛好者や取引者に強い印象を与え、浸透している。
これに対し、晋が被告を通じて高島屋以外のデパートや専門店において高級帯の販売を開始したのはせいぜい昭和五〇年代後半からであり、原告以外の者が昭和三〇年代及び四〇年代において、本件模様一ないし三を使用した高級帯を販売したことを認めるに足りる証拠はない。
(三) 帯地の生産本数は、昭和三八年度の桐生内地織物協同組合の生産概況で見ても、丸帯七万本、袋帯二一万本、名古屋帯三五万本等であり、西陣、桐生、博多の三大産地全体でみると、平成元年当時の年間の帯地の生産本数は、約四〇〇万本であるのに対し、原告の帯地の年間生産本数は、約四〇〇〇本であり、その本数は決して多くはない。なお、帯地の図柄は、多種多様のものがあり、一柄当たりの生産本数を平均一〇〇本位と仮定すると、年間で約四万柄を下らない柄の帯地が生産されていることになる。また、社団法人日本染色意匠保護協会は、意匠の保全登録を行っているが、西陣の業者の利用が多く、博多や桐生の業者の利用は非常に少ないものの、帯地の意匠の保全登録の申請が年間一万件から一万三〇〇〇件位ある。(甲四八の2、乙二八、六二、六三、証人江原)。
(四) 以上認定の事実によれば、第一に、本件模様一ないし三は、いずれも前記の各構成により、他の帯地や裂地の模様と比べ、需要者の感覚に端的に訴える独創的でかつ極めて印象的な意匠的特徴を有し、かつ、その意匠的特徴が商品表示としての統一的な把握を可能にするものであって、需要者が一見して特定の営業主体の商品であることを理解することができる程度の識別力を備えたものであるということができ、第二に、原告の錦帯は、高級な帯として著名であり、その中で、原告帯一及び三は、初代平蔵の創作に係る帯として、また、原告帯二は謙の創作に係る帯として、龍村織物美術研究所及び龍村織物並びに原告により、長年にわたり「龍村平蔵製」等の商標が付されて製造販売されてきたものであり、昭和三〇年代及び同四〇年代において、原告以外の者で、本件模様一ないし三を使用した帯を販売した者がいない以上、まさに本件模様一ないし三は、長期間特定の営業主体の商品に排他的に使用されてきたものであるということができる。そして、本件模様一ないし三は、テレビ等で宣伝広告されているわけではなく、毎年春秋に高島屋で開催される「龍村平蔵錦帯展」や高島屋の売場で原告帯一ないし三が原告の錦帯を代表する帯としてしばしば展示され、ときに前記のように皇室ご愛用の帯として雑誌に取り上げられる程度であり、その売上も、原告帯一で年間一〇〇本、原告帯二で年間約七〇本、原告帯三で年間約三〇本というものではあるが、原告帯一ないし三及び被告帯一ないし三は、いずれも一本数十万円から数百万円する高級帯であるから、このような高級帯の需要者及び取引者間でその模様の前記特徴が広く知られていればよいのであり、そして、このような高級帯の需要者であれば、龍村の錦帯の中の代表的な銘柄である原告帯一ないし三については、その模様が前記のように需要者の感覚に端的に訴える独創的でかつ印象的な意匠的特徴を有し、かつ、龍村織物美術研究所及び龍村織物並びに原告により長年にわたり、排他的に使用されてきたものである以上、その模様の前記特徴を十分に認識しているものと推認することができ、したがって、本件模様一ないし三は、原告の商品表示として、高島屋の店舗が存在している東京、横浜を中心とした首都圏、及び、大阪、京都を中心とした関西圏において遅くとも昭和五〇年代初頭ころまでには、高級帯の需要者及びその取引業者間で、「広く認識されている」ものとなったものであり、そして、右の周知性は現在においても継続しているものと認めるのが相当である。
4 本件模様四ないし七の周知性について
証拠(甲一〇の2・3、四六、四八の1・2、五三、六一、八〇、八六、九四、乙四の1ないし3、五、六の1ないし10、七の1及び2の各1・2、八ないし一〇、一三ないし一五、一六の1ないし50、一七の1ないし46、三〇、三一の1ないし19、三三の1ないし19(枝番省略)、三四の1・2、三七の1・3・5・8ないし10・12、三九、四〇、四三の1の1ないし4、四三の2、四九、六〇、検甲1ないし一六、証人小野、証人龍村晋、証人細野、証人大久保、原告代表者)によれば、次の事実が認められる。
(一) 初代平蔵は、前記のとおり、大正年代から昭和にかけて、正倉院や法隆寺などに保存されていた古代裂、及び、室町時代から江戸時代にかけて外国から入ってきた名物裂の研究復元に力を入れてきたが、原告は、その設立当時から、このような先染紋織正絹の裂地の製織に力を入れており、その設立当時製造していたのは数名柄であったが、現在では、その裂地の柄は、八五銘柄となっており、柄の大小、地色の違いを考えると模様の数は、二〇〇位と非常に多い。
原告の裂地は、一二〇cmの幅の先染紋織りの絹織物であるが、製品として自社加工して販売するものが約八〇%、原反として販売するものが約二〇%である。原告が製品として下請を利用して加工販売するものは、テーブルセンターが約五〇%、仕立帯が約二〇%、ハンドバックや札入れ等の袋物や和装小物が七ないし八%、その他の二ないし三%がネクタイ等であり、その年商は約五億円である。また、原告は、残りの二〇%を裂地のままで、十数件の取引先に販売しているが、その内訳は、茶道具関係に一〇%、袋物、和装小物のメーカーに八%、残りは、人形屋、ネクタイメーカー、仏具店、建物の内装用などであり、これらが一般消費者向けの商品として販売されているが、その裂地の年商は約一億円である。したがって、原告裂地の用途別の使用量は、自社加工分と原反販売先加工分とを合わせると、テーブルセンター五〇%、仕立帯二〇%、ハンドバックや札入れ等の袋物と和装小物約一五ないし一六%、茶道具関係一〇%、ネクタイその他が約四ないし五%である。
なお、ハンドバックや札入れ等の袋物や和装小物の九割は、原告がデパート等に卸売りしたり、消費者に直接販売しているが、原告の裂地を使用した袋物や和装小物の販売数量が全国のそれらの販売数量の中に占めるシエアがどの位であるかは不明であるし、原告裂地四ないし七の販売割合も不明である。また、ネクタイ加工業者や人形加工業者は多数あるため、原告との取引業者の占める販売シエアは不明であるし、原告裂地四ないし七のそれぞれの販売シエアも全く不明である。
また、原告製の裂地を使用したこれらの商品は、デパートや専門店で販売されるだけでなく、法人の行事の記念品や個人の引き出物として一般の消費者に配られることもある。また、例えば、京都の西陣織会館(昭和五一年建築)では、西陣織組合員の商品一五〇種類位を展示販売しているが、同会館においては、市価より一、二割安く販売されるため、毎年三〇万から五〇万人の観光客、修学旅行生及び京都市民が大量に訪れ、西陣織組合員の商品を購入していくが、原告の製品は、龍村コーナーで販売されており、テーブルセンターとハンドバック等が比較的よく売れている。
茶道具は、茶道具専門の問屋が裂地を購入して、自社若しくは下請により加工して、製品を全国のデパートや小売店に販売する。有力な問屋は、全国に一〇軒位あり、京都、東京に多いが、原告は、そのうち六軒の問屋に常時裂地を納入している。問屋では、裂地を使用して、古帛紗等の茶道具を製造するが、原告裂地四ないし七は、いずれも昭和四一年までに製造を開始した裂地であり、現在まで長期間継続して販売されている。原告製の裂地は、茶道の家元の三千家(裏千家、表千家、武者小路千家)でも利用されている。
なお、原告は、古代裂や名物裂の模様を復元した模様を基にして作成した原告裂地をテーブルセンターその他の製品として販売する際には、その裂地のよって来る由縁を解説した説明書をその製品に同封しており、また、原告が裂地のままで販売し、第三者がこれを茶道具等の製品として加工する際には、原告の方で作成した説明書を同封することが多い。
(二) 原告の八五銘柄の裂地のうち、売行がトップクラスのものはおよそ五銘柄あり、最も売れているのは、「円文白虎朱雀錦」と「獅子狩文錦」で年間それぞれ一八〇〇メートル位であり、その次が原告裂地七(唐花雙鳥長斑錦)と「紅牙瑞錦」で、後者の販売量は年間一五〇〇メートル位であり、これに次ぐものとして原告裂地五(鹿文有栖川錦)、原告裂地六(山羊花卉文錦)があり、原告裂地四(天平双華文錦)は、これらより販売量が少ないが全体で見れば中堅に位置する。
(1) 本件模様四(天平双華文錦)は、初代平蔵が復元した正倉院御物中の赤地花文錦の図柄、模様を原型として作成されたものであり、昭和一六、一七年以降に龍村織物美術研究所がテーブルクロス等として製造販売し、その後原告が全体の色彩等を一部アレンジしたものを製造販売している。本件模様四の赤地は、別紙第四原告物件目録のとおり、①赤地に白い六弁花文の縦縞部と緑色の菱形花文の縦縞部が交互に等間隔で繰り返され、②白い六弁花文は、上下、左右に対称で僅かに縦長であって、こげ茶色の長方形の茎から、上下に双葉状の特徴ある一枚の大きな花弁、左右に同様なやや小さい二枚の花弁、その間に丸い小さな一枚の萼のようなものが出ており、③この白い花文は、縦と横に、ほぼ等距離、等間隔に整然と並び、④緑色の菱形花文は、縦に長く、上下、左右に対称で、変形の赤い茎から緑色の房状の花が、上下にやや大きく、左右にやや小さく出ていて、⑤この緑色の菱形花文は、いずれも隣り合う四つの白い花文の中心に位置するように、縦横に整然と並ぶとの構成からなる模様であり、本件模様一ないし三と比べ、細かな模様の組み合わせからなっている。
原告は、本件模様四の赤地を、昭和三七年から製造しており、同赤地は、財布、人形、インテリア関係などに用いられている。本件模様四の売行は、あまり多くなく、平成六年までで、合計で二〇〇〇メートル以下であり、年間で四〇ないし五〇メートル位である。
(2) 本件模様五(鹿文有栖川錦)は、前田家に残っていた名物裂中でも有名な「有栖川・鹿紋様」という図柄、模様を初代平蔵が復元したものをアレンジしたものであり、別紙第五原告物件目録のとおり、①橙の地色に、橙と白の混じった色、青と白の混じった色、橙の混じった緑色、青色と中間的な色を多く用い、②直線を多用して、全体的に直線部分の極めて多い模様とし、③襷状に右上から左下、左上から右下へ、規則的に折線状に起伏する縞模様を並べて描き、これにより多数の同形の変形八角形の枠を作り、④各枠に抽象化された鹿の図形を青色で表わし、⑤鹿は一段毎に右向き、左向きと体の向きを変え、背には橙と白の混じった六つの斑点を描き、⑥縞模様は、折線状に起伏し並走する二筋の縞よりなり、これにより作られる変形八角形の枠の配色はすべて同じで、鹿の前と後に青色の部分、上下に緑色の部分及び青と白の混じった色の部分で囲まれており、二筋の縞の間には青の点、青と白の混じった点が散らされているとの構成であり、本件模様一ないし三と比べ、細かな模様の組み合わせからなっている。
龍村商店及び龍村織物美術研究所は、大正時代及び昭和初期のころから、本件模様五を裂地及び帯地として製造販売していた。原告は、昭和四〇年から原告裂地五を製造販売している。原告裂地五は、売行は、中位の上であり、年間にして四〇〇ないし五〇〇メートル位で、昭和四〇年ころから平成六年までで約一万メートル位である。
なお、原告裂地五は、名物裂のオリジナルな模様と異なり、鹿の向きを一段ごとに左右に入れ替え、全体の色彩も多少異なっている等の差異があるが、鹿が一段毎に交互に向きを変えているか、すべて同じ方向を向いているかということは、本件模様五を全体として見たときに、一般の消費者から見て、特に印象に残るような特徴部分であるということはできない(このことは、西陣織工業組合に長年勤務していた上宮敬一証人ですら、原告裂地五の鹿の向きが一方向であるか二方向であるかについては、特に記憶がないことからも推認される(乙三四の1))。
(3) 本件模様六(山羊花卉文錦)は、正倉院御物中の有名な図柄、模様を原型としたものであり、その中柄ローズ地の模様は、別紙第六原告物件目録のとおり、①地色をローズ、紋様をベージュ色とし、②花卉を中心に瑞雲と山羊で囲む楕円の正文と、鳥を中心とする副文との組み合わせにより構成された、動きのある紋様を連続して上下左右対称に繰り返し、③正文は、花卉を中心とし、その上下に樹木とうずくまる一対の兎、その上に瑞雲を配し、中心の左右に花を戴いた双鳥、さらにその左右にこの花を挟んで一対の山羊、山羊の背に別の瑞雲を配し、楕円の外形とし、④正文の両側は、瑞雲を対称に配し、その上下に花卉を置いた縦長の紋様を、また正文の上下には別の一対の複雑な花卉紋様を左右対称に配し、⑤四方を正文に囲まれた中の副文は、中心に上下に二つの花を置き、これをとりまいて四羽の鳥を上下左右対称に配しているという構成であり、本件模様一ないし三と比べ、細かな模様の組み合わせからなっている。
原告裂地六は、龍村織物美術研究所が昭和一六、一七年以降に復元して、テーブルクロス等として製造販売を始めている。原告も、昭和四一、二年ころから、その色彩をアレンジしたうえで、この中柄ローズ地をテーブルクロス等として製造販売をしているものである。本件模様六の中柄ローズ地の売行は、中の上であって、年間平均四〇〇ないし五〇〇メートル位であり、昭和四二年ころから平成六年までで約一万メートル位である。
(4) 本件模様七(唐花雙鳥長斑錦)は、初代平蔵が復元した正倉院御物中の有名な図柄、模様を原型としたものであり、別紙第七原告物件目録のとおり、①地色は、赤、青、朱、緑、紫、黄緑の太い同幅の縦縞地とそれぞれの間を区切る黄色の細縞とし、②大きな花とその下に花弁をくわえた双鳥からなる紋様を、③太い縞地に、主に白で表わし、僅かに配色を変えて二つ一組として、縦方向に繰り返し、④隣列の紋様とは、双鳥の向きを上下反対にして、互いに中間に位置させるとの構成であり、赤、青、朱、緑、紫、黄緑の太い縦縞地を黄色の細縞で明確に区切り、これに白で大きな花と双鳥を表わして、多くの色の太い縞からなる構成であり、本件模様一ないし三と比べ、細かな模様の組み合わせからなっている。
原告裂地七は、龍村織物美術研究所が戦前からこれをテーブルクロス等として製造販売し、原告も昭和三〇年ころからテーブルクロス等としてこれを製造販売しているものである。原告は、本件模様七の中柄を昭和三〇年から、同小柄を同三六年から製造しており、昭和四〇年から平成六年までで、合計四万四五〇〇メートル位は製織しているが、その中柄の売行は中位であり、年間二〇〇メートル、その小柄の売行は非常によく年間一〇〇〇ないし一五〇〇メートル位である。本件模様七のテーブルセンターは、裂地のもっとも主要な加工品であり、注文も多い。
(三) 一九七七年一月二五日平凡社発行の「正倉院裂、名物裂」の一一四頁には、様々な種類の正倉院裂、名物裂の説明や写真が掲載されており、その一部に有栖川錦・鹿紋様の写真も掲載されているが、その本文中に「製作は龍村美術織物」との記載がある。また、同一四二頁には、「現代に生きる古代裂、名物裂」の見出しの元に、様々な種類の古代裂、名物裂を使用したハンドバック、ネクタイ、コンパクト、札入れ、草履等の写真が掲載されているが、その中に、本件模様四及び六を使用したハンドバック及びネクタイ、本件模様六を使用したコンパクト及び草履、本件模様五を使用したハンドバック(小)の写真も掲載されている。そして、その本文中には、「飛鳥、奈良時代の上代裂と、中国で製織されて日本に舶載された名物裂。ここに掲載しているものはそれらの裂から、あるものは原型通りに、あるものは文様と配色に創意を加えて製作されたもの。製作は古裂の復元に八十年の歴史をもつ、京都の龍村美術織物で、現在市販されているものに限られている。」との記載がある。ただし、これらの記事は、あくまでも、様々な種類の古代裂、名物裂の紹介とその裂地を使用した商品の紹介が主眼であり、付随的に、原告が古代裂、名物裂を原型通りに復元し、あるいは、一部創意を加えて製作し、これらの商品を販売していることを紹介しているものである(甲三一)。
また、原告発行の龍村裂コレクションと題するパンフレットには、様々な種類の原告の裂地を使用したテーブルセンター、ハンドバック、和装小物、ネクタイ等の製品、及び、原告の裂地の中から代表的なものとして四三種類の裂地の写真が掲載されており、その一部として原告裂地四ないし七も含まれている(甲一〇の2)。
(四) 正倉院事務所編著、朝日新聞社昭和三八年六月三〇日発行の「正倉院宝物 染織(上)」、同三九年六月三〇日発行の「正倉院宝物 染織(下)」には、多数の古代裂の紹介と解説がされており、その中で、原告裂地四の原型である正倉院の古代裂の赤地花文錦、原告裂地六の原型である同紫地山羊花卉文錦についての詳しい解説と図柄についての詳細な写真が掲載されている(乙七の1及び2の各1・2)。また、松本包夫著の「正倉院裂と飛鳥天平の染織」(昭和五九年七月四日発行)にも、同様に、赤地花紋錦と紫地山羊花卉文錦の詳しい解説と写真が掲載されている(乙八)。
また、昭和五六年二月二五日講談社発行の「人間国宝シリーズ17喜多川平朗/深見重助」によれば、喜多川平朗も正倉院の古代裂を調べその復元作業で優れた業績を上げたことが記載されており、古代裂の復元作業に業績を上げている者は、初代平蔵のほかにも存在していることが伺われる(乙九)。
さらに、山邊知行監修・毎日新聞社昭和五三年一月一〇日発行の「名物裂」には、二一一に及ぶ極めて多数の名物裂が紹介されているが、その中に、原告裂地五の原型である有栖川錦の写真、解説等が掲載されており、また、千宗室監修・淡交社ほか昭和四五年八月二〇日発行の「茶道美術全集15裂地」には、五九種類の名物裂についての解説が掲載されており、その中に有栖川錦・鹿紋様の写真と詳しい解説が記載されている(乙一三)。
また、文化庁文化財鑑査官北村哲郎監修の元で、忠実に復元された名物裂一二裂一セットが、昭和五七年から同五九年にかけて三回にわたり各一〇〇〇部ずつ限定販売され、復元名物裂の頒布もなされている(乙一四、一五)。
以上のように、正倉院御物の裂については、少なくとも四、五〇〇以上の種類があり、また、名物裂については、二〇〇種類以上の種類があり、そしてこれらの古代裂や名物裂については、一般に自由に復元され、製品等にも使用されている。
また、晋は、遅くとも昭和三一年ころから現在まで、龍村商工及びその後設立した前記会社を通じて、本件模様五及び七等を使用した裂地を中心として、古代裂や名物裂を復元した複数の模様の裂地ないしはこれを原型とした模様の裂地あるいはそれらを使用したテーブルクロス、袋物等の商品を継続的に販売している(一時は高島屋等を通じて販売していたこともあった。)。なお、原告裂地四ないし七及び初代平蔵が復元した裂地並びに第三者が復元ないし製織した裂地は、別紙比較第四ないし第七目録のとおりであり、原告及び龍村商工のみならず、複数の業者が、本件模様四ないし七を使用した裂地、あるいは、これを使用した袋物等の商品を製造、販売している。
(五) 以上認定の事実によれば、原告の裂地は、現在では、八五種類くらいの銘柄があり、代表的な銘柄として原告のパンフレットに掲載されているものでも四三種類もあること、また、本件模様四ないし七だけをみても、いずれも前記認定の構成であり、本件模様一ないし三と比べて、細かな模様の組合せであって、一般の消費者の感覚に端的に訴え、商品表示としての統一的把握を可能にするような、独創的でかつ印象的な意匠的特徴を有しているということはできず、一般の消費者が、極めて多数種類存する裂地の中から、一見して特定の営業主体の商品であることを容易に理解することができる程度の識別力を備えたものとは言い難いこと、また、本件模様四ないし七は、いずれも正倉院の古代裂、あるいは、有名な名物裂の模様を原型としてこれを多少アレンジしたものであって、もともとこれらの古代裂及び名物裂は、初代平蔵のみならず、研究者であれば誰でも自由に研究復元できる対象となる模様であり、また、実際に研究復元されてきたものであって、そして、原告裂地四ないし七及び原告商品四ないし七についても、その裂地のよって来る由縁を解説した説明書がその製品に同封されることが多いのであるから、これらの製品を購入した消費者及びその取引者も、まずは本件模様四ないし七を古代裂ないし名物裂をアレンジした模様と理解するものであって、これを特定の企業のみが独占して製造販売し得る商品の模様と理解する可能性はむしろ少ないものといわざるを得ないこと、さらに、本件模様四ないし七を含む古代裂や名物裂は、一般に自由に復元され、製品等に使用されているのであり、晋が経営していた龍村商工をはじめ、原告以外の製織業者が、昭和三〇年代以降現在まで、本件模様四ないし七あるいは様々な種類の古代裂や名物裂ないしはこれに類似した模様の裂地をこれまでに製造販売してきていることが認められ、右によれば、テーブルセンターやハンドバック、札入れ、ネクタイ、茶道具等をデパートや専門店あるいは前記の西陣織会館等で購入する一般消費者はもちろんその取引者にとっても、本件模様四ないし七を、原告の裂地の模様の特徴として、それぞれを他の模様と識別できる程度に理解し、そのうえでこれを原告の商品表示として把握し、理解することは極めて困難であるといわざるをえない。すなわち、前記のように原告帯一ないし三のような高級帯の需要者は、その数も限定されており、このような需要者にとってみれば、原告の錦帯の中の代表的な銘柄として長年使用されている本件模様一ないし三の独創的でかつ印象的な特徴を原告の商品表示として認識することは十分に可能であっても、テーブルセンターやハンドバック、札入れ、ネクタイ、茶道具等をデパートや専門店等で購入する一般の需要者ないしはその取引者にとってみれば、数十種類、数百種類もある裂地の模様の中から、細かな模様の組み合わせであって、一般の消費者の感覚に端的に訴え、商品表示としての統一的把握を可能にするような、独創的でかつ印象的な意匠的特徴を有しているということはできない模様を、原告の商品表示として把握することは極めて困難であるといわざるを得ないのである。
したがって、原告が長年にわたり古代裂及び名物裂に由来する模様の裂地を一部アレンジしたうえで原告裂地四ないし七を製造販売し、その販売量においても他の業者を凌駕してきたという事実があったとしても、これらの事実から直ちにその模様を原告の商品であることを示す模様として取引者ないし需要者間に広く認識されているものであると認めることはできない。
なお、証人細野等は、本件模様四ないし七は、いずれも古代裂ないし名物裂の模様とは、図柄において若干異なり、地色等においては大きく異なっている旨証言するが、本件においては、一般の需要者が本件模様四ないし七(天平双華文錦、鹿文有栖川錦、山羊花卉文錦、唐花雙鳥長斑錦)のそれぞれの基本的な図柄の特徴を周知商品表示といえるかどうかが問題となっているのであって、右に指摘されるような各古代裂ないし名物裂と相違する些細な部分が周知商品表示となるような特徴を備えたものではないことは明らかである。
以上によれば、本件模様四ないし七は、原告の商品表示として周知であるということはできず、これに基づく原告の請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。
二 争点2(商品表示の他人性)について
不正競争防止法二条一項一号にいう「他人の商品等表示として需要者の間に広く認識されているもの」との要件における「他人の」とは、単数の企業に限られるものではなく、特定の商品表示の持つ出所識別機能、品質保証機能及び顧客吸引力を保護発展させるという共通の目的のもとに結束しているものと評価することのできるようなグループもこれに含まれると解するのが相当である(最三小判昭和五九年五月二九日民集第三八巻七号九二〇頁)ところ、原告と晋とは、原告が設立された昭和三〇年から今日に至るまで、仕事のうえで協力関係に立って何かをなしてきたことを認めるに足りる証拠はなく、かえって、後記のように、原告及び謙らが、昭和三一年一一月四日付けの朝日新聞東京本社版(朝刊)に、原告と龍村商工とは、製品、営業、経営等一切無関係であるとの謹告を掲載したのを皮切りに、昭和三四年には、謙が晋及び龍村商工らに対し、原告の東京営業所を確保するため、龍村商工らが本店営業所に使用していた日本橋織宝館の建物及び土地の明渡の訴訟を提起したり、原告が晋経営の会社を被告として、「龍村平蔵」等の商標の商標権及び不正競争防止法に基づく差止の訴訟を提起したり、また、本件においては、晋から仕入れて、被告帯一ないし三及び被告裂地四ないし七等を販売している被告の行為の差止及び損害賠償を求める訴訟を提起してきているのであり、昭和三一年以来、原告と晋とが仕事上の協力関係になく、商品表示を保護発展させる共通の目的のもとに結束しているものではないことは明らかである。
そして、前記認定のとおり、龍村平蔵の事業は、龍村織物美術研究所が承継し、同研究所の事業は龍村織物が承継し、龍村織物の事業は原告が承継し、現在に至っているのであるから、原告が本件模様一ないし三の周知商品表示主体であることは明らかである。
また、被告は、晋が初代平蔵の事業の承継者であることは、昭和二六年四月一日の本件合意により確認されている旨主張するが、本件合意の意味とその効力については、後記四認定のとおりであり、少なくとも本件合意における第一部商品である高級美術織物としての原告帯一ないし三に織りなされている本件模様一ないし三について、晋が初代平蔵及び龍村織物美術さらには龍村織物の事業を承継しているものと認めることはできないのである。
三 争点3(混同のおそれ)について
被告模様一ないし三が本件模様一ないし三と極めて類似していることは当事者間に争いがない。そして、前記認定のとおり、原告帯一ないし三は、いずれも「龍村平蔵製」の商標が付され、高島屋の各店舗でのみ販売されているものであるのに対し、被告帯一ないし三は、いずれも「龍村晋謹製」の商標が付され、高島屋以外のデパート等で販売されているものではあるが、原告帯一ないし三及び被告帯一ないし三のいずれも「龍村」を含む商標を付しているのであるから、それぞれの模様が酷似している以上、被告帯一ないし三が原告ないし原告の系列会社の商品であると混同するおそれがあると認めるのが相当である。なお、原告帯一を高島屋で購入した顧客の中で、他のデパートで被告帯一がより廉価(約五〇万円)で展示販売されていたため、その被告帯一を原告帯一と誤解し、その販売価格が原告帯一より廉価であるため、原告に対し、苦情の電話がきたことがあるが(甲四八の1・2、五四、証人小野)、右事実も、被告帯一ないし三についての混同のおそれを肯定する一資料となるものである。
四 争点4(一)(明示の使用許諾)について
1 本件合意成立の背景となる事情
(一) 龍村織物の経営状況と龍村商工の設立
謙を代表者、晋を専務、徳を取締役とし、昭和二三年四月一日に設立された龍村織物が約一年くらい隆盛を極め、その後、政治経済情勢の変動により八〇〇人の従業員を抱え、急激な経営危機に陥り、銀行団の要請により人員削減を実施したがその間様々な紆余曲折があり、同二四年九月には謙と徳が同社の経営から手を引くことになり、同二五年末には、晋も同社を退社することになり、その経営を田中市蔵及び浅井修吉に委ね、晋が上京して同年一二月二九日に龍村商工を設立するに至り、その後、龍村織物は同二七年二月自己破産の申立てをし、同年四月、日本銀行の斡旋により銀行団と債務返済の合意をし、徳が龍村織物の代表取締役、初代平蔵が同取締役、元が同監査役に就任し、一方、謙を代表取締役として同二六年八月に設立されていた有限会社龍村製織所も龍村織物の債務を返済する予定であったが同二九年二月には手形不渡りを出すなどして、謙が経営の第一線を退くことになり、徳と元が同二九年三月五日に有限会社龍村美術織物を設立し、その運営が軌道に乗ったため、同三〇年一二月三日、徳を代表取締役、元を取締役、初代平蔵及び謙を顧問として原告を設立するに至ったことは、前記認定のとおりである。
したがって、本件合意が成立したとされる昭和二六年四月一日は、晋が龍村織物を退任し東京で龍村商工を設立した翌年であり、龍村織物の再生のために田中市蔵らが経営合理化や債務の返済のために奔走していた時期である。また、初代平蔵が昭和三一年五月三〇日に芸術院恩賜賞を受賞するため上京した際に、駅に出迎えに出た晋と徳及び元とが路上で喧嘩をしたとのエピソード、及び、後記のとおり、謙及び原告らが連名で、昭和三一年一一月四日付けの朝日新聞東京本社版(朝刊)で原告らと龍村商工とは、製品、営業、経営等一切無関係であるとの謹告を掲載したことからして、遅くとも昭和三一年ころは、晋と、謙、徳及び元との仲は険悪なものとなっていたことが推認される。
(二) 初代平蔵と前沢源蔵
謙は、東京帝国大学美学美術史科を卒業し、晋は、東京帝国大学経済学部を卒業し、当初大手紡績会社に勤務していたこと、また、徳は、早稲田大学理工学部機械科を卒業していたこと、そのため、龍村織物については、謙が代表取締役、晋が専務、徳が取締役となったことは、前記認定のとおりであり、これに、証拠(乙五七、五八、証人龍村晋)を総合すれば、初代平蔵は、その息子たちがそれぞれの特長を生かして力を合わせて龍村織物を発展させその経営危機を乗り超えていくことを願っていたものであり、そのために、昭和二六年三、四月頃、謙や晋らの叔父(初代平蔵の妻の弟)に当たる前沢源蔵をしてその仲介役に当たらせ、龍村織物の債務返済のための担保となっている不動産の処理や、龍村織物の危機を乗り切るための方策を謙と晋を中心として協議させたものであり、同二五年末に東京で龍村商工を設立した晋が、宝塚の自宅に帰ったときに、謙及び前沢源造と協議をし、その結果合意された内容を、前沢源蔵が乙一の原本に当たる書面に記載し、同源造並びに晋及び謙がこれに署名をし、当時京都にいた徳がその後にこれに意見を付記して署名をしたものである(なお、元は、当時大学を卒業して教員をしており、龍村織物の経営に参画していなかったため、このような協議に加わる立場ではなかった。)。ただし、その合意を書面化したもの、すなわち、乙一の原本がどのような形態で存在していたのか、どのような内容であったのかを次に検討する。
2 乙一の原本の存在とその成立の検討
(一) 乙一の記載事項とその外形からの考察
乙一には、次の事項が記載されている。
昭和二十六年三月廿五日
一 龍村織物会社対龍村家ノ貸借関係ノ検定ニ付キ過般同会社株主総会ノ議決ニ従ヒ検査役ヲ依頼スルニ付
宮野省三氏
ヲ適任トスル旨ニ一致シ同氏へ右ノ件晋君ヨリ交渉スル事
一、対龍村織物会社交渉ハ謙晋徳前沢源蔵相談ノ上主トシテ晋ガ是ニ当タル
一、高島屋様トノ取引開始スルニ付取引契約書ハ謙晋徳連名デ造ル様高様当局ニ交渉スル
前沢源蔵
龍村謙
龍村晋(以上乙一の1の1)第一条「龍村織物会社対龍村家ノ貸借関係」ハ「龍村織物株式会社対龍村織物美術研究所」ノ趣旨トシテ同意スル第二条ハ「龍村織物美術研究所龍村織物株式会社ノ関係ニ関スル諸問題ニツキ龍村織物株式会社ト交渉スル際ハ謙晋徳前沢源蔵相談ノ上行フコトトシ終始両者ノ関係ヲ熟知スル晋ガ之ガ解決ニ積極的に努力ヲスル」ノ趣旨トシテ同意スル
四月二日
龍村徳(以上乙一の1の2)
昭和廿六年四月一日
一、〓様との取引に関シテハ
一、所謂第一部商品即帯地を中心とする美術織物ノ製造。販賣は龍村謙自身で行ふ
一、所謂第二部商品(大量生産品)の製造。販責は龍村商工株式会社で行ふ
一、
一 対龍村織物株式会社検査役複数ノ方宜シキ成ラバ春藤南郷後藤顧問の方々モオ願ヲスル
前沢源造
一 南禪寺邸家賃収入ハ宝塚御両親ノ収入ニ絶対ニ確保スル
前沢源造
龍村謙
龍村晋(以上乙一の1の3)第一条ハ高島屋様御当局ノ御意向ニ遵ヒ本形式ヲ必要トスル為同意スル
第二条ハ南郷顧問ニ依頼スル件ハ再考ヲ要ス。
四月二日
龍村徳(以上乙一の1の4)
(二) 過去の各判決における乙一の原本及びその成立についての認定
(1) 日本橋織宝館事件
謙は、昭和三四年、晋、龍村商工、岡安みよ及び関東ラガークラブこと沢田健一を被告として、日本橋通二丁目四番地二〇等所在の織宝館の土地建物の明渡等を求める訴を東京地方裁判所に提起し、同三八年二月二〇日、謙の明渡の請求を概ね認める旨の判決の言渡しを受けているが、その判決によれば、同事件における争点は、①右織宝館の土地建物は謙名義であるが、実際は龍村織物美術研究所の収入で取得したものであり、謙、晋及び初代平蔵の共有であるか、また、②右土地建物が謙の単独所有であるとしても、晋が謙の許諾を得て右土地建物を占有使用していたかどうかであり、後者の争点について、同判決は「成立に争いのない乙号証の一、二中には「所謂第二部商品(大量生産品)の製造販売は龍村商工株式会社で行ふ。」旨の部分があるがその記載の体裁及び原告本人尋問の結果からして果たして当事者間にその旨の諒解が成立したといい得るかどうか疑問であり、とってもって被告晋ないし被告会社が本件建物の使用を許されたことの証とはなしがたい。」として、乙一の原本に当たる書証についてその成立に争いがないことを認めたうえで、その記載の体裁及び謙の本人尋問の結果(本件の甲七一)からして、乙一の右合意が織宝館の建物の使用許諾の合意の証拠とまでは認めがたいと判示している。なお、同判決は、「被告会社は設立後訴外高島屋との取引を通じて龍村織物株式会社の旧債の一部を代位弁済したことが認められる」と判示しており、龍村商工が、その設立後、龍村織物の高島屋に対する債務を高島屋に製品を販売するとの取引を通じて返済し、謙が高島屋との取引を再開することができるように協力したことを認定している。(甲四五)
(2) 南禅寺事件
徳が代表者である株式会社織宝苑タツムラシルクが、昭和四〇年に、晋や龍村慶子らを被告として、京都市左京区南禅寺下河原町の土地建物について、初代平蔵から株式会社織宝苑タツムラシルクに譲渡する旨の売買契約(公正証書)があったとして、初代平蔵の相続人である晋らに対し、その共有持分についての所有権移転登記手続を求めた事案であり、京都地方裁判所は、同五四年一二月一四日、右公正証書作成のための初代平蔵の委任状が真正に成立したものとは認められないとして、原告である株式会社織宝苑タツムラシルクの請求を棄却した(乙二六)。したがって、本件の乙一は、事案の争点とは直接関係しておらず、同判決においては、右乙一の原本の存在、成立について明示的に触れられていない。
(3) 「龍村平蔵」等商標事件
原告及び有限会社龍村織寳本社は、昭和四七年に、商標権及び不正競争防止法(周知商品表示)に基づき、株式会社龍村織宝(代表岡安みよ、旧代表晋)を被告として、そのパンフレット中に「たつむら」「龍村平蔵」「龍村製」「龍村裂」等の文字を使用すること、及び、その商品説明書中に「龍村裂」「龍村製」等の文字を使用することの差し止めを求める訴を東京地方裁判所に提起し、同五一年九月二九日一部勝訴の判決の言渡しを受けたが、東京地方裁判所は、同判決において、「晋は、独り残って龍村織物の財政建直しをはかったが、成功せず、まもなくこれを見捨て、昭和二五年一二月二九日東京に織物製品の製造販売を目的とする前記龍村商工を設立し、翌昭和二六年四月一日謙との間に、手織により製作する高級な帯を中心とする美術織物の製造販売を謙において行い、機械により製作する主として広幅の織物の製造販売を晋において行う旨の取決めをして製品の製造販売を行い、その後前記のように昭和四五年四月二〇日龍村商工の販売部門を担当するものとしての被告を設立したうえ、これに製品を供給し、昭和四六年龍村商工が事実上倒産するに至ると、個人で右製品の製作に当ったうえ、これを被告に供給し今日に至っている。」と、第一部商品は謙、第二部商品は晋とするとの本件合意が成立したことを認定している。なお、同判決においては、晋が、龍村商工設立時から同四六年に倒産するまでの間、及び、その後は同事件の被告である株式会社龍村織宝を通じ、正倉院裂を使用したハンドバック、札入れ、帛紗その他の商品を販売していたことが認定されている。また、東京高等裁判所は、昭和五四年一一月一四日、同事件の控訴事件について判決をし、その中で「晋は、独り残って龍村織物の経営建直しをはかったが、成功せず、まもなくこれを見捨て、昭和二五年一二月二九日東京に織物製品の製造販売を目的とする龍村商工株式会社を設立した。昭和二六年四月一日ころ、前沢源蔵(龍村平蔵の妻の弟)の仲介により、晋と謙との間に、手織により製作する高級な帯を中心とする美術織物の製造販売を謙において行い、機械により製作する主として広幅の織物の製造販売を晋において行う旨の諒解が成立したが、全面的な和解には至らなかった。晋は、龍村商工株式会社により製品の製造販売を続け、その後昭和四五年四月二〇日、龍村商工株式会社の販売部門を担当するものとしての被控訴人会社を設立したうえ、これに製品を供給し、昭和四六年龍村商工株式会社が事実上倒産すると、晋個人で製品の製作に当ったうえ、これを被控訴人に供給して今日に至っている。」と判示し、一審と同様に本件合意が成立したこと等を認定している。(乙一八の1・2)
(三) 野田証人、謙、晋及び元の証言の検討
野田証人は、平成三年五月二三日、京都地裁昭和六三年(ワ)第三三九号事件において、「京都地裁の南禅寺事件及び東京地裁の「龍村平蔵」商標事件を晋から依頼されて担当していた弁護士であり、そのいずれの事件においても、当時存在していた乙一の原本を証拠として提出していること、及び、乙一の原本は、乙三五のような体裁の和綴じのものであり、乙三五よりも重厚なものであったこと、乙一の原本は、きちんと製本されており、素人が後から綴じたようなものではないこと、並びに、右各事件が終了した後は現在までの間、晋とは一切利害関係がないこと」を証言している(乙四一)。
これに対し、謙は、昭和三七年一月一八日、東京地裁の前記日本橋織宝館事件において、「乙一の1の1の宮野省三を検査役に依頼する、高島屋との取引契約書は、謙、晋、徳連名で作るよう交渉するとの書面は、前沢源造の仲介で作成しているが、和綴じされたものではなく、単なる紙であった。乙一の1の3の「昭和二六年四月一日付けの、第一部即ち帯地を中心とする美術織物の製造販売は謙で行い、第二部商品(大量生産品)の製造販売は、龍村商工で行う」との書面については、同意していない。ただし、南禅寺の家賃収入は両親の収入に確保するとの件は同意したので署名した」旨供述しており、それぞれ単一の書面に署名したことまでは認めている。(甲七一)
また、晋の証言は、概ね「乙一の合意書は、宝塚の晋の自宅において、初代平蔵の意を受けて仲介の労を取っていた叔父の前沢源造、謙及び晋が協議した結果を、晋が鳩居堂で買った和綴じ本に書いていったもので、当時龍村織物の窮状を救うべく債務の整理、不動産の処理その他の協議すべき問題は山積していたが、晋が宝塚の自宅に帰宅していた昭和二六年の三月と四月の二回に分けて、それぞれの問題について個別に合意し、四男の徳の同意も取った方がよいということで、乙一の合意書を京都の徳に送り、乙一のとおりその同意を得た。すなわち、初代平蔵は、もともと、美術は謙、経済は晋という考え方であったので、手機(美術織物)は謙、自動織り(大量生産品)は晋というのは初代平蔵の考え方に合致する。乙一の原本は、一通で晋が保管していたが、何度も訴えられ、乙一の原本を各訴訟において書証として提出しているうちに、原本の所在が不明となってしまった。元は、初代平蔵の自宅で協議しているのを側で見ていたというが、そこでは協議をしていない。」というものであり(乙二一(陳述書)、一一七の1・2(証人調書)、三〇(陳述書)、証人龍村晋、甲七五(証人調書))、具体的で詳細であるが、元の供述は、単に、「ばらばらの紙に作成されていたものを晋が和綴じのものにしたこと、特に乙一の1の3は、「一、」という端数があり、ここで切断してレイアウトしたものであること(甲六一、二九丁)」、あるいは、「乙一の合意を協議したところは初代平蔵の自宅であったが、晋の家で協議をしたり、乙一を作成したかもしれない」というものであり(原告代表者平成三年九月二五日二九八、二九九項)、元は、当時はまだ謙や晋及び徳との協議に呼ばれる立場にもなかったことや、晋の証言と比べるとその供述の具体性の点で疑問もあることからすると、乙一の原本の存在と成立に関する元の供述の信用性はあまり高くはない。
(四) 朝日新聞の謹告
原告、龍村織物美術研究所、謙、徳、元らの連名で、昭和三一年一一月四日の朝日新聞東京本社版(朝刊)に、「原告らは、龍村商工所在の織宝館に復帰するまでの間、仮営業所で営業すること、龍村商工とは、製品、営業、経営等一切無関係である」との趣旨の謹告を掲載した(甲五五の1ないし3)。(ただし、右謹告は、朝日新聞東京本社版に掲載されているだけで、同大阪本社版には掲載されていない(乙五九)。また、右謹告には、初代平蔵の名前も掲載されているが、初代平蔵は、その晩年において、兄弟が二派に別れて対立抗争するのを憂慮し、兄弟仲良くすることが最も重要な先決問題であると考えていた(乙二六、五七、五八、証人龍村晋)ことからすると、右の朝日新聞の謹告の内容が初代平蔵の真意に沿ったものであったか否かについては、現在においては必ずしも明らかではない。)
(五) 結論
右に認定したところによれば、(1)乙一の原本の存在及びその成立については、日本橋織宝館事件の東京地裁判決においては、乙一の原本の存在を前提としてその成立に争いのないことが認定されており、かつ、「龍村平蔵」商標事件の一審、二審判決は、いずれも本件合意の成立を認定しているものであること、及び、(2)前記野田証人も、右各事件終了後から現在までの間、晋とは、何らの利害関係を有しない弁護士であるが、乙一の原本が右商標事件及び南禅寺事件当時存在し、これを証拠として提出していたことを明確に証言しているものであること、さらに、(3)謙は、日本橋織宝館事件において、乙一の1の3について、前記のとおり南禅寺の家賃の件について署名したものであり、その前の第一部及び第二部商品に関する条項については同意していない旨証言し、また、乙一の1の3の一葉目の末尾に「一、」と記載されているだけで、その下に空白部分が存するのはその記載が中断しているものである旨の主張も原告からなされているが、徳は、前記認定のとおり、「第一条ハ高島屋様御当局ノ御意向ニ遵ヒ本形式ヲ必要トスル為同意スル、第二条ハ南郷顧問ニ依頼スル件ハ再考ヲ要ス。」として、第一部商品と第二部商品についての合意条項である第一条と検査役についての合意条項である第二条が、謙と晋の間で合意されたことを前提としてその意見を述べて署名しているものである以上、乙一の1の3の二枚の写しの原本がその作成当時から連続した書類であり、謙及び晋が乙一の原本の右第一条及び第二条について署名したとの体裁であったこと、及び、右「一、」が単なる書き損じであったことが認められ、以上(1)ないし(3)によれば、乙一の原本の存在と成立を認めるのが相当である。
なお、野田証人の証言は、細かなところでは記憶が曖昧になっているとしても、相当年月も前のことであるから特段異とするには足りず、これに対し、謙の前記供述は、晋に対し日本橋織宝館の土地建物の明渡を求めた訴訟における供述であり、晋に対する対立感情が最も激しかった昭和三七年当時の証言であるにもかかわらず、その署名までも否認するものではなく、単なる紙に署名したものを晋が後で勝手に綴じたものであるとの供述であり、この証言をそのまま採用することができないことは前記のとおりである。また、朝日新聞に掲載された前記謹告は、本件合意が成立してから、五年半以上も後のことであり、後記のとおり、五年半の間に謙、徳、元ないし原告と、晋とが激しく対立するようになっていたのであり、このような謹告が掲載されたこと自体をもって、乙一の原本の存在と成立を否定するのは相当ではない。
なお、原告は、乙一は、正式な契約書でもないし、写しも控えもなく、印鑑の押印も割り印等もない旨の主張もするが、乙一の原本は、前記のような経緯で兄弟間で協議した結果を叔父の前沢源蔵が和綴じの文書に手書きで記載していったものであるから、コピー機のない時代に契約書の控えが作成されなかったとしても何らおかしくはないし、また、各自の署名がある以上、印鑑の押印や割り印等は必要ではないし、兄弟間の合意としては、署名だけの契約書が存在することは特段不自然ではない。また、原告は、当時事業分割の合意があったとしてもその対外的な発表もなかった旨主張するが、昭和二六年当時の龍村織物を取り巻く前記の状況からして、龍村織物の役員を去っていかざるをえなかった謙や晋らが対外的に事業分割の合意を発表するような状況ではなかったことも明らかであり、むしろ、本件合意は、前記のとおり、龍村家の窮状を打開すべく兄弟間で協力し合う内容を取り決めた内部的な合意であって、対外的に発表するような内容の合意ではない。さらに、原告は、謙及び徳並びに原告さらには晋において、本件合意を何ら履行していない旨主張するが、晋は、後記のとおり、昭和三〇年代、四〇年代、五〇年代前半は、本件合意におけるいわゆる第二部商品である裂地を継続的に販売していたものの、高級帯を販売したことはなかったものであり、むしろ、原告らと異なり、長期間にわたり、本件合意を履行していたといえるのであり、原告が右に各指摘するところは、いずれも理由がない。
3 本件合意の意味
(一) 経過的な合意
前記のとおり原本の存在と成立が認められる乙一によれば、前記2(一)記載の合意が、謙、晋、徳及び初代平蔵の依頼を受けてこれを仲介した前沢源蔵の間に成立したものと認めるのが相当であるので、次に本件合意の意味について、判断する。
まず、本件合意は、前記1の背景事情からすれば、龍村織物の窮状を救うべく、当時同社の役員を退任させられていた、謙、晋及び徳の三者が同社の運営及びその債務の返済等に関連して、「龍村織物の検査役に適任者(宮野省三)を選任し、晋が龍村織物との交渉に当たること、高島屋と謙、晋、徳連名での取引契約書を作成すべく高島屋と交渉すること」を昭和二六年三月二五日に合意したものであり(乙一の1の1及び2)、いわば昭和二六年当時の事態の打開を図り三人の協力体制を樹立すべく協議をした結果であり、そのため、同年四月一日には、「高島屋との取引に関しては、第一部商品である帯地を中心とする美術織物の製造販売は謙が行い、第二部商品(大量生産品)の製造販売は龍村商工が行うこと、及び、高島屋当局の意向に従いこの形式については徳も同意すること」、並びに、「龍村織物の検査役については、複数の人(春藤、南郷、後藤顧問)にもお願いすること」も合意し、最後に「南禅寺邸の家賃収入を両親の収入として確保すること」を合意したものである(ただし、徳は南郷顧問の検査役選任については、再考を要するとの意見を述べている。)。
そして、龍村商工は、その後、高島屋の室内装飾部に口座を持ち、高島屋と取引をしていたが、東京地裁の日本橋織宝館事件の判決においても、「被告会社は設立後訴外高島屋との取引を通じて龍村織物株式会社の旧債の一部を代位弁済したことが認められる」と認定されているように、晋は、初代平蔵にも依頼され、本件合意成立後、謙が高島屋との取引を再開し、呉服の口座を持つことができるように、龍村織物の高島屋に対する債務を、龍村商工が高島屋に製品を販売するとの取引を通じて返済したものであり、この頃は、本件合意の趣旨に沿った兄弟間の協力体制が維持されていたものである(甲四五、証人龍村晋平成四年五月二〇日三一五項以下)。しかし、龍村織物は、前記のとおり、昭和二七年二月自己破産の申立てをし、謙を代表取締役として同二六年八月に設立されていた有限会社龍村製織所も同二九年二月には手形不渡りを出し、ようやく徳と元が同二九年三月五日に有限会社龍村美術織物を設立し、その運営が軌道に乗ったため、同三〇年一二月三日、原告を設立するに至ったのであるが、その間、東京で龍村商工を経営していた晋と謙ら兄弟との仲は次第に険悪なものとなり、龍村商工が東京で注文を取り、これを龍村織物に発注するというような両者の協力体制は結局実現されず、むしろ、晋が日本橋織宝館において龍村商工の営業をし、原告がその近辺の小さな仮営業所で東京における営業をし、両者反目しあうという状況の中で、謙らは、昭和三一年には、前記のような謹告を朝日新聞に掲載し、同三四年には、前記のとおり、謙が晋らを被告として、龍村商工が本店営業所として使用していた日本橋織宝館の土地建物の明渡を求めた訴訟を提起するにいたり、兄弟が協力し合って初代平蔵の事業を承継し発展させていくという本件合意の前提となっていた協力体制自体がこのころには全くなくなってしまっていたのである。そして、本件合意は、そもそも、その対象を「高島屋との取引」に限定して、第一部商品と第二部商品とを区分しており、高島屋との取引以外のことまで取り決めたものではないこと、並びに、龍村織物の検査役選任の件及び南禅寺の家賃収入の件について合意しているのであるが、龍村織物自体が昭和二七年に自己破産の申立てをしており(登記簿上は昭和四一年一月二七日解散している(甲五六の2))、龍村織物の検査役選任の問題は、遅くとも原告が設立された昭和三〇年には既に過去の問題となっていたこと、また、南禅寺の家賃収入の件も駐留米軍が南禅寺を使用していたときの家賃の問題であるから、昭和二七年に米軍が米国に引き揚げる(証人龍村晋)前の問題であったにすぎないことからすれば、本件合意は、昭和二六年当時の状況を前提として、当時の龍村織物ないしは龍村家の窮状を救うために、初代平蔵の意を受けた前沢源蔵の斡旋により、期間の定めもないままに兄弟三人が取り決めた当時の状況に即応した経過的な合意であり、その合意の内容は、龍村家を取り巻く状況に応じて、当然に変遷していく内容のものであったと解されるのである。したがって、昭和二六年から同三〇年以降にかけて、本件前提となる状況が前記のとおり大きく変化し、兄弟間の協力関係が全く考えられない状況に至り、昭和三一年に、兄弟間の絶縁を意味する前記のような朝日新聞の謹告が掲載された頃においてもなお、本件合意が解約されずに、その効力が兄弟間において依然として維持されていたと解することは、兄弟間の実態に即応せず、はなはだ疑問が残るところである。すなわち、本件合意は、もともと経過的な合意であり、既にその合意が解消され、その効力を失ったものと解せざるを得ない。
(二) 第一部商品と第二部商品の意味
また、本件合意は、そもそも、高島屋との取引において、謙は「第一部商品即ち帯地を中心とする美術織物」を、龍村商工(晋)は「第二部商品(大量生産品)」を製造販売するという合意であるところ、原告帯一ないし三は、原告の錦帯の代表的な銘柄であり、まさに本件合意にいう「帯地を中心とする美術織物」であって、被告帯一ないし三が手織ではなく機械織りであるという理由のみから、原告帯一ないし三と同様に本件模様一ないし三をその模様として織りなしている高級帯である被告帯一ないし三(被告帯一の販売価額は、前記のとおり一本約五〇万円である。)が、この「帯地を中心とする美術織物」に含まれず、第二部商品(大量生産品)」に含まれると解するのは相当ではない。第二部商品(大量生産品)とは、もともと古代裂、名物裂等の広幅の裂地ないしその裂地を使用したテーブルクロス、袋物、和装小物等のことをいっているものであり、外観上も価格的にも原告の錦帯に類似する高級帯である被告帯一ないし三が、本件合意における第二部商品に含まれると解すべき理由はない。
以上によれば、被告の使用許諾の抗弁の主張は、少なくとも被告帯一ないし三については、この点からも理由がない。
五 争点4(二)(先使用)について
1 証拠(甲二三、四八の2、七六、乙二の2ないし5、二一、証人龍村晋)によれば、次の事実が認められる。
(一) 晋は、昭和二五年一二月に龍村商工を設立した後、同三〇年に八王子市において東龍織物株式会社を設立して、同社を製造工場とし、また、その販売部門として、同四〇年七月二七日に株式会社タツムラを、同四五年四月二〇日に株式会社龍村織宝を設立し、さらに、同四八年二月一三日に有限会社龍村織物を設立している。
(二) 東龍織物株式会社は、力織機を設置した工場を備え、設立後昭和四六年まで、室内装飾裂地を製織していた。龍村商工は、室内装飾裂地、カーテン、テーブルセンター等の製品を右東龍織物株式会社及び神奈川県愛甲郡愛甲町の丸甲撚糸有限会社から仕入れており、当初高島屋の室内装飾部に口座を持ち、高島屋とも取引をしていた。龍村商工は、昭和三八年二月に、前記のとおり日本橋織寳館を明け渡せとの判決を受けたため、同年四月に、同所にあった本店を千代田区丸の内三丁目の新東京ビル地下一階等に移転して営業を続けたものの、同四六年五月下旬に、手形不渡りにより銀行取引停止処分となり、同じころ、東龍織物株式会社も工場の操業を中止し、工場の建物を明け渡した。
(三) 株式会社タツムラ(資本金五〇万円)は、前記新東京ビルの一室に本店及び小売店舗を置き、テーブルセンターや雑貨小物を販売していたが、昭和四六年下旬に同店舗を明け渡し、休業状態となった。ただし、同社は、昭和四七年一二月から千代田区有楽町一丁目五番地有楽町ビル地下一階において、営業を再開し、今日までテーブルセンター、帛紗、ハンドバック、ネクタイ等を販売している。
(四) 株式会社龍村織宝(資本金一〇〇万円)は、品川区西五反田七丁目東京卸売りセンタービル八階の小売店舗において、仕立帯、帛紗、ハンドバック、テーブルセンターを都内に茶道具関係者等に販売していた。ただし、共同代表者であった岡安みよが昭和五一年に亡くなってからは、晋は、その後継者と対立し、同社に対する実質的経営者ではなくなり、また、同社も、同五八年六月二三日解散の決議をしている。
(五) 有限会社龍村織物(資本金二五〇万円)は、有楽町ビルの株式会社タツムラの店舗に同居して営業をしており、同社より被告に対し帯地等を販売している。
(六) 以上によれば、晋の事業の中心は、昭和二五年一二月から同四六年五月までは、龍村商工であり、同社の経営が困難になった以降は、株式会社龍村織宝にその活動の中心を移し、昭和四八年二月以降は、有限会社龍村織物を事業の中心としている。また、製造工場については、前記の東龍織物株式会社があり、その後は、前記の丸甲撚糸織物有限会社へ発注し、昭和五七年以降は、群馬県下の業者に注文するようになっている。なお、これらは、手織りではなく、すべて力織機によるものである。
そして、晋が経営する前記各企業の営業品目は、室内装飾裂地、カーテン、テーブルセンター、和装小物、茶道具等であり、昭和五〇年代の後半ころから呉服の卸売りを業とする被告と継続的に取引をするようになり、同六〇年ころから同社を通じ横浜そごうへ、袋帯地、袋物、和装小物等を納入しているだけであり、晋が右以前から被告帯一ないし三を販売していたことを認めるに足りる証拠はない。
以上によれば、被告帯一ないし三についての被告の先使用の抗弁は理由がないことは明らかである。
六 争点4(三)(著作権の行使)について
旧不正競争防止法六条(平成五年五月一九日法律第四七号による改正前のもの)は、「特許法実用新案法、意匠法又ハ商標法ニ依リ権利ノ行使ト認メラルル行為ニハ之ヲ適用セズ」と規定しており、特許庁が審査のうえ権利を認め、登録したものについて、直ちに不正競争防止法によってその権利の行使を否定するのは相当ではないことを同条の立法趣旨としているものであり、そもそも著作物の創作により当然に権利が発生し、格別の審査、登録等を要しない著作権については、権利の発生過程が異なるものであって、これを適用除外理由としては規定しなかったものであるから、同条を著作権について類推適用するのは相当ではない。したがって、被告の著作権の行使の主張は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。
七 争点4(黙示の承諾)について
被告は、被告が被告帯一ないし三を昭和四五年ないし四七年ころから現在まで継続的に販売してきたのに原告がこれを知りながらその販売行為を放置してきたのは、これを黙示的に承諾したものと認められる旨主張するが、被告が右のころから被告帯一ないし三を継続的に販売してきたことを認めるに足りる証拠がないことは前記のとおりであり、したがって、被告の黙示の承諾の主張は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。
八 争点6(権利の濫用)について(争点5は、本件模様四ないし七に関する抗弁なので判断しない。)
被告は、被告帯一ないし三の差止請求に関連して、(1)戦時中から終戦後にかけて、原告の前身である龍村織物美術研究所や龍村織物の発展のために多大の貢献と努力をしてきた晋に対し、その生計の基であり生涯の事業を差し止めることは信義則に反する、(2)初代平蔵の共同相続人であり、初代平蔵が起業した「龍村の事業の」継承人である晋に対し、初代平蔵の事業を承継し得なくすることは信義則に反する、(3)原告が本件模様二を謙の承諾なく使用するのは、謙の著作権を侵害する行為であり、そのような原告が晋に対し被告帯の差止を求めるのは信義則に反する等の主張をする。
しかしながら、晋が戦時中から終戦後にかけて、原告の前身である龍村織物美術研究所及び龍村織物の事業の維持と発展のために多大の貢献と努力をしてきたこと、及び、晋が初代平蔵の共同相続人の一人であり、終戦後謙と協力してその事業を維持継承しようとしていた時期があったことは、前記認定事実からも推認することはできるが、晋は、終戦後の混乱期において、龍村織物の経営が破綻し、その責任を取って同社の役員を退任するなかで、独り東京に出て龍村商工を設立し、それも機縁となって、その後他の兄弟と鋭く対立する関係となったことは前記認定のとおりであり、また、昭和二六年に本件合意が成立した当時でさえも、前記認定のとおり、帯等の高級美術織物は謙が製造販売し、裂地等の大量生産品は晋が製造販売するとの取決めがなされたのであり、本件模様一ないし三を織りなした原告帯一ないし三又は被告帯一ないし三のような高級帯については、昭和二六年の本件合意当時においてさえ、晋がその事業を遂行することを求めてはいなかったのであるから、原告が晋ないしは晋から被告帯一ないし三を仕入れている被告に対し、被告帯一ないし三の販売の差止を求めることは、右の事情に照らせば、特段信義則に反するものということはできない。
なお、被告は、本件模様二について、謙に著作権があることを前提とした主張をするが、一品製作ではない美術工芸品を著作権法で保護しうるかどうかは、そもそも困難な問題が存するところであり、また、被告主張のような事実があったとしても、直ちに晋から被告帯二を仕入れて販売している被告が権利濫用の主張をすることができないことは、右に述べたところからも明らかであるから、被告の権利濫用の主張はいずれにしても理由がない。
九 争点7(損害)について
以上認定の事実によれば、被告は、故意又は過失により、被告帯一ないし三を販売して、原告の営業上の利益を侵害したものと認められる。そして、被告が右侵害行為により得た利益の額は、営業上の利益を侵害された原告が受けた損害の額と推定されるものであるので、次に、被告が右侵害行為により得た利益の額について判断する。
被告は、昭和六〇年五月一日から同六三年三月三一日までの間、被告帯一については、一本当たりの価額を一七万三〇〇〇円で仕入れて、これを一本当たり二二万円で合計六本を卸売し、また、被告帯三については、一本当たりの価額一一万六〇〇〇円で仕入れて、これを一本当たり一七万円で合計一二本を卸売したこと、及び、被告帯二についてはこれを販売したことはなかったことをそれぞれ自認しており、そして、被告の販売量、販売価額に関し、原告が提出する証拠(甲五一)は、推測に基づくものであり、ほかに被告が右に自認する限度より多く被告帯一及び三を販売したことを認めるに足りる証拠はない以上、被告は、右の限度で被告帯一及び三を販売したものと認めるのが相当である。ただし、被告は、前記第二、一3のとおり、被告帯二については、これを晋から仕入れて販売していることは認めているのであり、したがって、原告主張の期間内にこれを一本も販売しなかったというのも不合理といわざるを得ず、証拠(甲一三の1ないし5、五一)及び弁論の全趣旨によれば、被告は、右期間内に、被告帯一と同一の仕入価格及び販売価額で、被告帯二を少なくとも一本は販売したものと認めるのが相当である。
そして、被告の全営業における被告帯一ないし三の販売の占める割合は極めて少ないものであって(証人大久保)、被告帯一ないし三の販売のために直接必要な経費(固定経費以外のもの)としては特別なものを考えにくいこと、及び、被告が右販売行為に要した経費については特段の証拠も提出していない等の弁論の全趣旨からすれば、右販売行為に要した直接的な経費(固定経費以外のもの)としては、粗利益の一割を超えるものではないと推認するのが相当であり、したがって、被告は、被告帯一ないし三の販売行為により、前記卸売価格と仕入れ価格との差額の少なくとも九割を利益として得たものと認めるのが相当であり、右利益の額は、被告帯一について二五万三八〇〇円、被告帯二について四万二三〇〇円、被告帯三について五八万三二〇〇円であるから、合計で八七万九三〇〇円となる。
また、右以外に、原告が被告の被告帯一ないし三の販売行為により損害を被ったことを認めるに足りる証拠はない。
一〇 結論
よって、原告の被告に対する被告帯一ないし三に関する不正競争防止法に基づく販売等の差止及び損害賠償請求は右の限度で理由があるから認容し、その余の請求は理由がないから棄却する。
(裁判長裁判官設樂隆一 裁判官橋本英史 裁判官長谷川恭弘)
別紙第一〜第七物件目録〈省略〉
別紙第一〜第三原告物件目録〈省略〉
別紙第一〜第七対比目録〈省略〉